NHK 解説委員室

これまでの解説記事

CIS独立国家共同体創設30年

石川 一洋  解説委員

今から30年前、1991年12月21日、ソビエト連邦が崩壊しました。
ソビエト連邦はヨーロッパからユーラシア大陸まで、今のロシアやウクライナ、そして中央アジアのカザフスタンなど15の国から成り立っていました。

東西冷戦の一方の雄で共産党による一党独裁体制が続いていました。しかしソビエト連邦もゴルバチョフ書記長の民主化、ペレストロイカの中で体制が揺らぎ始め、共和国での民族意識が高まり、が次々と自立を求め、歴史は一気に動きだしました。
そして、12月21日、中央アジアのカザフスタンのアルマトイでソビエト連邦を構成する11の共和国の首脳が集まり、ソビエト連邦の崩壊を認めた、歴史的なサミットが開催されました。
今日は、この会議が開かれたカザフスタンのその後の30年から、ソビエト連邦の崩壊を振り返り、今後を展望します。
石川解説委員に聞きます。

i211222_1.png

Q石川さんは、この首脳会議、現地で取材したそうですね

Aはい、私はキーパースンの一人だったカザフスタンのナザルバエフ大統領を密着して取材していました。12月8日のロシア、ウクライナ、ベラルーシの三首脳によるベラベージ首脳会議でソビエト連邦の消滅と共同体の創設が宣言されると、中央アジア諸国がこれに同意するのかどうかが大きな焦点となりました。ナザルバエフ大統領は平等な権利を認めるのなら、という条件で共同体に創設する方向で中央アジア5か国の意見をまとめ、改めて21日にアルマトィで旧ソビエト諸国の首脳会議を開催することになりました。私はナザルバエフ大統領の専用機に同乗したのですが、「俺は日本の中曽根元首相に似ていると言われているが本当」と聞かれたことを覚えています。いよいよ独立するのだという高揚感が印象に残っています。

Q中央アジア、カザフスタンはソビエト連邦の解体にはどのような態度を取っていたのでしょうか。

i211222_2.png

Aソビエト連邦の中で、中央アジアはソ連邦の解体と独立には慎重な姿勢を取っていました。ナザルバエフ氏率いるカザフスタンが、独立を宣言したのも最も遅く91年12月16日でした。連邦の解体による経済の崩壊の懸念が強かったのです。そのため自ら独立したというよりも解体の結果として独立したという性格の方が中央アジア諸国は強かったのです。

i211222_3.png

このアルマトィ会議で焦点となったのは、核兵器の行方です。

i211222_4.png

当時ソビエト連邦の戦略核兵器は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシそしてカザフスタンの四か国に配備されていました。ソビエト連邦の崩壊によって、核兵器もそれぞれの国に分けられることになれば、新たな核兵器国が生まれてしまうことになります。
それを避けたかったのがロシア、そしてアメリカです。アメリカは当時のベーカー国務長官を、ロシア、ウクライナ、カザフスタンなどに派遣、ロシア以外の国に核兵器を放棄し、核兵器についてはロシアの所有、管理に移行するよう働きかけました。ソビエト連邦が無秩序に崩壊した場合、核兵器保有した共和国同士の紛争が起きるのでは、という恐れも大きかったのです。アメリカは、一定の統合を維持したいロシアを陰で支えたともいえるのです。
アルマトィ会議では核兵器についてはアメリカの目論見通り、ロシアが一元管理する方向性が決まりました。アルマトィ会議の結果、独立国家共同体CISの創設も決まり、アメリカとロシアが恐れた無秩序な連邦の崩壊という事態は避けられました。

Qそれぞれの国が新たな独立国となったわけですが、その後の歩みはどうなったのでしょうか?

i211222_5.png

i211222_6.png

Aアルマトイ会議が開催されたカザフスタンのエシムベコフ大使が、先週、日本記者クラブで記者会見をしました。会見した12月16日は、カザフスタンの独立からちょうど30年の記念の日でした。
大使は、ソビエト連邦崩壊後日本に留学し、日本語が堪能です。その後も、カザフスタンの国営エネルギー会社の幹部や商工会議所の会頭など要職を歴任しました。
「独立の最初の数年間は我々にとって非常に苦しい時でした。我々は、経済、国民の生活、国家管理システム、対外関係などを新しく構築しなければなりませんでした。我々の主な課題は、市場経済を構築し、全体主義体制を解体して、社会のすべての制度を近代化することでした。そして近代的な民主主義国家を目指し、今のカザフスタンを新しく作り上げました」。
実はエシムベコフ大使は、当時27歳、日本を研究する学生で、我々NHKの取材班の現地スタッフとして、私とともに中央アジア取材を駆け回っていました。この世代がその後30年の国造りの中核を担うことになるのです。

Q大変苦しい時期だったと話していましたが、ソビエト連邦崩壊からどのような課題があったのでしょうか?

i211222_7.png

A新しい独立国は、アイデンティティの確立、つまりソビエトという巨大な中央集権的な社会主義の帝国から独立した国民国家への移行、経済改革、つまり中央統制的な社会主義計画経済から市場経済に、そして政治改革、閉ざされた共産党の一党独裁体制から国際社会に開かれた民主国家へ、この三つの移行を同時に行わなければならないというところに大きな困難がありました。お互いに深く結びついた社会主義計画経済のつながりが途切れました。私的所有や価格の自由化などの市場経済改革をそれぞれの国がバラバラに行いました。予算を造るにしてもそれぞれの国には通貨も無かったのです。ソビエトの統治システムが残ったロシア以外の国は、いわば統治システムを一から作らなければならなかったのです。とりわけソビエトの中では中央から補助を受けていた中央アジアはその補助がなくなり、非常に苦しい自立への道のりでした。30年という道のりの中でそれぞれの国は政治、経済、アイデンティティという面で自立の基礎を固めたということではないでしょうか。

Q今ソビエト連邦崩壊から30年が経過して、ロシアとウクライナの対立が深まり、ロシアと欧米の緊張が高まっています。中央アジアをめぐる地政学的な状況はどうなっているのでしょうか?

i211222_8.png

A中央アジアは、ユーラシアの中心にあります。ソビエト連邦崩壊によって閉ざされた中央アジアが世界に開かれました。ただロシアは中央アジアを自らの裏庭と位置付けて、安全保障、経済の両面でロシア中心の統合の中に置こうとしています。またこの30年間非常に影響力を強めたのは中国です。

i211222_9.png

中国の進める一帯一路のうち新シルクロード構想の中で中央アジアはカギとなる場所となっています。貿易高でもロシアを抜いて中国が一位となっています。中ロの利害は、一致しない面もあるのですが、当面は、上海協力機構などの枠内で中ロは中央アジアの覇権を共同で維持しようとしています。
ただ中央アジアは独立国として中ロ両国の言いなりになっているわけではありません。例えば歴史的、言語的につながりの深いトルコとの連携を中央アジアとして深めていますし、また米ロ、米中対立の中でも、中央アジアの国々は日本やアメリカ、ヨーロッパとの友好的な関係を維持しています。

i211222_10.png

i211222_11.png

また中央アジアは非核地帯条約を結び、カザフスタンは、ロシアの同盟国でありながら、核兵器禁止条約の批准国であります。
日本としては、ユーラシアの中心である中央アジアがこの二つの国に飲み込まれるのではなく、いわばASEANのような自立した地域になるのが好ましいと考えています。「自由で開かれた中央アジア」という考え方で、今後日本としても中央アジアの目線、視点にたった関係強化の道を探るべきだと思います。

(石川 一洋 解説委員)


この委員の記事一覧はこちら

石川 一洋  解説委員

こちらもオススメ!