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その歴史資料 ホンモノですか?

高橋 俊雄  解説委員

今はSNSの普及や生成AIの登場で、情報が本物かどうか見分けがますます難しくなっていますが、見分けが簡単ではないのは歴史資料も同じです。
歴史をねつ造したり、あったことをなかったことにしたりすることは、今の時代には、あってはなりません。ただ、歴史的には多くの偽文書が作られ、現代にも影響を及ぼしています。

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■1人の人物が創作「椿井文書」
現在、大阪・富田林市にある大阪大谷大学博物館で、「椿井文書をめぐる人々」という特別展が開かれています(6月19日まで)。

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展示されている絵図や家系図などの多くが、「椿井文書(つばいもんじょ)」と呼ばれる偽文書です。江戸時代後期に椿井政隆(1770~1837)という人物が創作しました。
展示には、「拡散する偽文書」という副題がつけられ、その広がりの実態を紹介しています。

例えば叡福寺というお寺の伽藍配置を記した絵図は、右下の部分に建久4年=西暦1193年の年号が記されています。鎌倉時代初期のものかと思いきや、椿井政隆が江戸時代の寺の様子を踏まえつつ当時の姿を想像して作り上げたと考えられています。

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椿井政隆は今の京都府南部出身で国学や兵学に通じていました。椿井文書にはこうしたニセの絵図のほか、家系図や神社の由緒書などがあり、総数は1000点を超えるとみられるということです。
中京大学教授の馬部隆弘さんが網羅的な研究を進め、3年前に新書を刊行。今回初めて現物を一堂に公開しています

■偽文書作成の目的は

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馬部さんによりますと、「まずは自己満足」。自分自身で売っていた形跡があまりなく、原本が手元に多く残されていたことから、子どもがおもちゃのブロックで街をつくるように、自分の世界を作り上げて楽しんでいたと考えられるということです。
一方で、椿井が創作した偽文書は、当時の社会の中でニーズもありました。
例えば山林をめぐって周りと争っている村にとっては、「この山はかつて村のものだった」ということを示す絵図があれば、論争が有利になります。そういうところに椿井が登場して、「こんな古文書がうちにある」と提示するわけです。

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さらに、ニセモノだと見破られないように工夫をしていたと、馬部さんは指摘します。
椿井文書の表装は色も大きさもまちまちです。筆跡も使い分け、いろんな時代のいろんな人物が作成したように見せかけようとしたと考えられます。
また、絵図は原本ではなく写しを渡し、紙や絵の具が新しくても違和感を持たれないようにしたことがうかがえます。
さらに、実際にはない年号を使っているケースもあります。
展示されている古文書の中に「永和5年10月」と記されているものがあるのですが、この年は改元が行われ、永和5年は3月までしかありません。
馬部さんは、見つかった時に「戯れで作った」と言い逃れができるように、あえてこうしたのではないかとみています。
ただ、歴史の空白を想像を交えて埋めていくというのは、当時はよく行われていたということで、馬部さんは「椿井に必ずしも悪気があったわけではない」と推測しています。

■現代への影響は
一方で、その「悪気のなさ」によって作られた大量のニセの古文書が、およそ200年がたった今、地域史の研究や活用にも少なからぬ影響を及ぼしています。

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例えば、京都府井手町の古代寺院の跡を紹介する案内板に使われているのは、椿井文書の絵図。横には「いにしえの井手の町の姿を知る手がかりとして下さい」と記されていますが、馬部さんによりますと、ほかの絵図と同様、椿井が想像して描いた部分が多いということです。このお寺は近年の発掘調査で新たに分かってきたこともあるので、内容を改めたほうがいいのではないかと思います。

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市町村の歴史を知る際に欠かすことのできない自治体史にも、椿井文書の内容を記載するケースが多く見られます。「すべてを史実とすることはできない」などと注意をうながしているものもありますが、そうしないと歴史的事実とみなされて、さらに利用が進んでしまいます。
椿井政隆は近畿地方の広い範囲に足跡を残し、彼の死後、明治時代には手元に残されていた原本などが売りに出されて広く出回りました。このため各地に文書が残され、使う際にはその内容を1つ1つ精査する必要に迫られているのです。
馬部さんは「全体像を把握することがスタートだ。椿井文書かどうか誰でもわかる状態になるように、歴史学全体で取り組んでいく必要がある」と指摘しています。

■人魚のミイラに見る「本物」と「偽物」
とはいえ、偽物の歴史資料を価値がないものとして切り捨てるのも、違うように思います。

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千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館が2015年に「大ニセモノ博覧会」という展示会を開き、古文書や絵画など歴史上のさまざまな偽物を紹介しました。この時の展示で目を引いたのが、人魚のミイラの復元です。

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江戸時代の人々は人魚の存在を信じていました。例えば国学者の平田篤胤は「人魚の骨を手に入れて食べるために小さく削った」と手紙に記しています。
人魚のミイラは信仰の対象になっていたほか、明治時代にかけて欧米に輸出されていたということです。
展示図録では、「人魚は確かに『ニセモノ』には違いない。しかし、人魚は本当にいると信じる人びとの心と、それをぜひ見たいと思う好奇心から生まれた『ホンモノ』と言えないだろうか」と解説しています。

この時展示された人魚のミイラは現代の復元ですが、今も残されている実物があり、科学的な調査も行われています。

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調査は、岡山県内のお寺に伝わる1体について倉敷芸術科学大学などの研究チームが行い、ことし2月、研究成果を発表しました。
エックス線CTなどで内部の様子を観察したところ、主要な骨格はなく、上半身は綿などが詰められていました。下半身の魚の部分は、日本の沿岸に生息する「ニベ科」の魚の特徴があることが分かりました。
また、年代測定の結果、1800年代後半、すなわち幕末から明治時代に作られた可能性が高いということです。
ただ、この調査、人魚かどうかを明らかにすることが目的ではないと、調査にあたった研究者は強調します。
倉敷芸術科学大学の加藤敬史教授は、「由来やつくった人などを探ることは文化財の調査として非常に重要で、保存のためにも役に立つ」と指摘しています。
この人魚のミイラは、お寺で大切に保存されてきたからこそ今回の調査が実現したわけで、人々の思いを伝える歴史資料という意味では「本物の文化財」ともいえるわけです。
実際、和歌山県に伝わる人魚のミイラは、信仰の実態を示す貴重な文化財として県の有形民俗文化財に指定されています。

■ニセの歴史資料とどう向き合うか
まずは偽物だとしても、文化財としての側面を大切にして、後世に残す手立てを考えてほしいと思います。
一方で、歴史的事実をゆがめかねない資料については、そのことを明示することも必要です。
今、地域の歴史をまちづくりや地域活性化につなげようという取り組みが各地で行われています。それ自体はどんどん進めてほしいのですが、その歴史を示す根拠は何なのかを明確にするとともに、分からないものは無理に解釈をしない、間違いが分かったら速やかに修正する、といったことも大切なのではないかと思います。   


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