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モスクワの今 苦悩するインテリゲンチアの声

石川 一洋  専門解説委員

ロシアの首都モスクワ、戦時とは思えない消費文化は続いています。その一方ウクライナへの軍事侵攻で欧米世界との断絶が深まる中、ロシアに残った知識人は何を考えているのでしょうか。今月モスクワを訪れた石川一洋専門解説委員に聞きます。

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Q モスクワの市民は戦争についてどのように考えているのでしょうか?

A 私は、今回はほぼ二年ぶりにモスクワを訪れました。モスクワの現状を知り、ロシアの知人たちが戦争の中で何を考えているのか本音を知るためです。
クレムリンに近い政治学者は、欧米との対立の中で国民は戦争の勝利のために団結していると豪語しました。
確かにソビエト時代に生まれた世代は、勝利を信じているという言い方をする一方、若い世代でははっきりと戦争に疑問を表明する人もいました。

戦後世代のモスクワ市民
「戦争はつらい。だけども子供や孫の安全のためにも勝利が必要だ」

20代の会社員
「私は直にウクライナに住んでいる人や信頼できるソーシャルメディアから情報を得ようとしている。嘘の情報で洗脳されたくない」

ただロシア国民が心を閉ざしている、戦争の話では口が重くなる人が多く、欧米とロシアの断絶はロシア国民の心にも壁を作っていると思いました。

Q モスクワの生活の状況はどうだったのでしょうか?

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A モスクワは、世界中の商品が溢れる大消費都市です。アメリカ、ヨーロッパ、日本との直行便は途絶え、また有名なブランドが撤退、生活への影響も現れています。ただショッピングモールなどを見る限り、モスクワ市民の旺盛な消費は変わっていません。ルーブルのレートも堅調で、ロシア経済の底堅さも示しています。

モスクワの高級なレストランが集まる高級住宅街です。ほとんど満員でした。戦争の一方の当事者の首都の姿とは思えない状況です。
その一方、よくよく見ると多くの住宅の明かりは消えています。この地区はもともと著名な俳優や作家など豊かなリベラルなインテリゲンチアが住んでいましたが、かなりな住民が国外に去り、多くの住宅が売りに出されていると言うことでした。
経済指標の堅調さの一方、制裁そのものとともに欧米との断絶という現実がじわじわと表れてきています。
そうした中でこれまで国際社会と交流しながらロシアの文化や芸術を支えてきた知識人や芸術家などインテリゲンチアの苦悩は深いものがあります。

Q ロシアにとってインテリゲンチアとは?

A インテリゲンチアは歴史の変動の中で常に大きな役割を果たしてきました。多くの知識人が去りましたが、ロシアに留まるという選択肢をした知識人や芸術家も多くいます。どんなことがあっても自分の祖国だという意識を強く持っています。

モスクワの中心部にあるソビエト時代の住宅の地下に画家で現代芸術家のアレクサンドル・ポノマリョフさんのアトリエがあります。
ポノマリョフさんは、私と同じく1957年生まれの戦後世代。実は生まれ故郷はウクライナのドニプロで、オデッサで船乗りになるための海技学校を卒業し、若い頃は海軍や商船の船乗りとして働き、海を愛するアーティストです。芸術は人々を分断するものではなく結びつけるものでなければならないと話しています。軍事用の潜水艦に色を塗り平和な展示物としたこともありました。
「私の潜水艦は芸術家のための船で芸術の子供です。軍事用の潜水艦は隠れていますが、私の潜水艦は、誰にでもすぐ見つかり、明るく、善良です」

Q 明るいアーティストですね?

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A ポノマリョフさんは南極やピラミット、サハラ砂漠を利用して、様々な国のアーティストと共同で大規模なパフォーマンスを行ってきました。しかし今回の戦争は、ポノマリョフさんにとっては個人的に大きな悲劇でした。
「私の祖父の1人はウクライナ人で(第二次大戦の激戦地)スターリングラードの英雄で、通りの一つが祖父の名前がついている。もう1人の祖父は、ロシア人でやはりスターリングラードの英雄で、戦後亡くなった。私は誰だというのだ」
ウクライナにもルーツのあるポノマリョフさんは、これ以上の悲劇は無いとして、早く戦争が終わってほしいと願いますが、そのために芸術は、何ができるのか、その答え見つかっていません。芸術の意味に没頭することで苦しみから逃れようとしているようにも見えました。
「ある哲学者は人間が人間となったのは、空を見上げて星を見た時だという。星を見上げないといけない。芸術家は船乗りと同様、人間にこのより広い宇宙の存在を知らせるのが役目だ」

私が次に訪れたのは、ドストエフスキーの研究家のタチアナ・カサトキナさんです。カサトキナさんは一昨年、ドストエフスキー生誕200年の時にインタビューして以来の再会です。

Q ドストエフスキーの特集で紹介した方ですね

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A カサトキナさんは、現代社会でのドストエフスキーを特に若者が読む意味は「ドストエフスキーは“世界を変えようと思うならまず自分を変えよう”と答えを与えているのです」と述べて、インタビュー全体からは希望というものを感じました。しかし今回は、戦争の影を強く感じました。
カサトキナさんは最も恐ろしいのは、憎悪が世界中で増幅しているということだと考えています。その中でカサトキナさんは今の時代に読むべきドストエフスキーの本として一冊をあげるとしたら、最後の作品「カラマゾフの兄弟」を勧めています。そこで不幸になって初めて人を助けることの大切さを知った長男のミーチャの姿を一例としてあげています。
「主人公のミーチャは、(無実の父殺しの罪に問われた時)、初めて人間は二番目の存在となるべきだ。他の人を助ける立場になった時に、人間は大きな存在になれると気づいたのです」

ロシアのウクライナへの軍事侵攻は過去のロシアの文学や思想への評価も揺さぶっています。ドストエフスキーも例外ではありません。

Q ドストエフスキーの評価にどのような影響があったのでしょうか

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A 北米のドストエフスキー協会がドストエフスキーは「作家の日記」などの論評で軍事侵攻の思想的な基盤を作ったと厳しく批判したのです。確かにドストエフスキーが19世紀後半、トルコとロシアの戦争の時に正教徒保護を訴えた論評について、プーチン政権側の歴史学者は、今の状況とそっくりだとして利用してもいます。
カサトキナさんはこうした評価は、ドストエフスキーのテキストをあたかも作家自身の声と誤解していると真正面から反論しています。「作家の日記」も文学作品として読むべきだとしているのです。つまり作家の日記は当時としては全く新しいジャンルを創作し、小説と同様、一種の視点を提示しているのであって、その一つ一つをドストエフスキー個人の意見とみなしてはいけないとカサトキナさんは考えています。

カサトキナさんはドストエフスキーを読むこと、研究することは学問的な仕事ではなく、人々と人生について考えることだとしていて、今はロシアの読者と教師にドストエフスキーの読み方を教えていることに集中しています。

2人は良心的な知識人ですが、自身も感じているように、知識層が今の状況に何をすれば良いのか、無力さというのも感じました。ロシアが孤立し、ロシアとの交流を断つ中でこうしたロシア社会の内側とどのように対話をしていくのか、重要な課題だと思いました。


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