「学び直し」という意味の「リスキリング」。最近よく耳にしますが、年齢を問わず必要に応じて新しいスキルを身につけることは、今に限ったことではありません。
江戸時代で言えば、49歳で隠居したあと天文学を学び、全国を歩いて測量した伊能忠敬が知られていますが、同じような年齢で新たなチャレンジをした人はほかにもいます。
現在開催中の展示会をもとに、2人の人物の例を紹介します。
■50歳前後から銅版画技法を習得 亜欧堂田善
1人目は、現在千葉市美術館で大規模な回顧展が開かれている、亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん/1748-1822)という画家についてです。
「田善」は本名の「永田善吉」からとり、「亜欧堂」は、主君の松平定信が「アジアとヨーロッパを目の前に見る心地がする」と評したことに由来すると言われています。
田善は今の福島県須賀川市に生まれ、絵をたしなみながら家業の染物屋を手伝っていました。人生が大きく変わったのは数えで47歳のとき。その絵を見た白河藩主の松平定信に召し抱えられ、50歳前後になって江戸に出て画業に専念することになります。
この頃、習得を命じられたと考えられるのが、銅版画の技法。細い線で精緻な表現ができるので、正確さが求められる地図や医学書などの印刷に向いていたと考えられます。
■1センチ四方に80本の線
銅版画は、針のような尖った道具で銅の板に図案を描き、その部分だけ銅を腐食させて溝を作り、インクをつけて印刷します。これには高度な技術が必要です。
田善の初期に位置づけられている作品は、技術が未熟で点や線の表現がさほど細かくありませんが、その後、卓越した技を身につけていきます。
「銅版画東都名所図」という、はがき大の大きさの作品のシリーズ。この中で江戸の花火を描いた作品の夜空の部分を拡大してみると、1センチ四方に80本の線が入っているということです。
■超絶技巧で医学書や世界地図も
こうして身につけた技術は実用的な版画にも生かされ、田善は日本初の銅版画による解剖図や、当時の最新の情報をもとに作られた世界地図などを手がけています。医学や地理といった最先端の科学の普及に、卓越した技で貢献したのです。
千葉市美術館の展示は今月26日まで開かれています。
銅版画だけでなく、肉筆の洋風画などおよそ250点が紹介され、遅咲きだった田善の画業をたどることができます。
担当学芸員の松岡まり江さんは、「銅版画を作るには地道な積み重ねが求められ、田善はテキストのないなか、すさまじい努力をしている。『遅く訪れたチャンス』に食らいつき、驚異的なスピードで技術を身につけたことは、今の私たちの励みになる」と指摘します。
■50代で反射望遠鏡を製作 国友一貫斎
2人目は、日本の科学技術の歴史に足跡を残した、国友一貫斎(くにとも・いっかんさい/1778-1840)という人物です。
今の滋賀県長浜市出身の鉄砲鍛冶職人ですが、彼が50代で成し遂げたのは、国内で最初となる反射望遠鏡の制作です。
一貫斎は40歳前後に5年ほど江戸で生活し、このときオランダ製の望遠鏡を実際に見る機会がありました。これをもとに、50代半ばになってから望遠鏡の制作に取りかかりました。
■月や太陽を観測 土星の輪も
一貫斎は、完成させた望遠鏡でみずから天体観測を行い、多くの図面を残しています。
月面観測図にはクレーターの様子などがかなり細かく書き込まれています。
また、太陽の黒点が移動する様子を書き記しています。毎日のように太陽を観測し、156日に及ぶ連続した記録をとっています。
ほかにも、木星のしま模様や土星の輪を記した図面も残されています。
一貫斎の望遠鏡は4台が現存し、自分で使っただけでなく、ほかの藩が買い上げたものもあります。「オランダ製よりもよく見える」という評価もあり、天文学の普及に大いに役に立ったと考えられます。
■驚異の手作業 今も使用可能
驚くべきことに、望遠鏡は200年近くたった今も使うことができます。
1台を所蔵する長浜城歴史博物館が実際に月を観測してみたところ、クレーターをはっきりと捉えることができました。
反射望遠鏡の筒の中には鏡があります。一貫斎は、材料となる銅とすずを最も適した比率で混ぜ合わせ、さびにくい鏡を作り上げました。鏡は今も曇っていないということです。
さらに、鏡の全体の形状についても、非常に精度が高かったことが明らかになっています。
国立天文台に持ち込んで詳しく調べたところ、現在市販されている望遠鏡と比べても、そん色のない出来であることを示すデータが得られました。
材料の比率を決めるのも、反射率を高めるために磨き上げていくのも、すべて手探り、手作業です。望遠鏡を完成させるまで、相当な試行錯誤があったと考えられます。
■江戸時代に「飛行機」の設計図
一貫斎は望遠鏡のほかにも鉄砲鍛冶の技術を生かしてさまざまなものを作り出し、高い評価を受けています。
例えば、「弩弓」(どきゅう)と呼ばれる鋼鉄製の武器。筆記用具や照明器具といった日用品も手がけました。
こうした一貫斎の多岐にわたる活動は、近年の調査で具体的な様子が明らかになり、関連する資料、953点が国の重要文化財に指定されることになりました。
これを記念する企画展が、来月26日まで滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館で開かれています。
望遠鏡は完成品のほか、図面や部品、砥石など、制作の過程を示す資料も紹介しています。
この展示資料の中で面白いものがあります。一貫斎が書き記した、飛行機の設計図です。
調査では詳細な図面が新たに見つかり、今回初公開されています。
板を五角形に組み立てて胴体を作り、鳥の羽根のような翼を取り付けようとしていたことが分かります。図面どおりに組み立てると、幅13メートルほどの1人乗りの飛行機になります。
実際には飛ぶことは難しいということですが、飛行機の図面としては江戸時代に日本人が書いた唯一といえるもので、一貫斎が本気で空を飛ぼうとしていたことがうかがえます。
展示を担当した長浜城歴史博物館の学芸員、岡本千秋さんによりますと、一貫斎は鉄砲鍛冶の心得として、あきらめずに続ければ願いが叶うと記していました。
また、望遠鏡については、納得のいく出来のものが完成しても「次はもっといいものができる」と改良、工夫を重ねたということです。
亜欧堂田善に国友一貫斎と、江戸時代に生きた2人の「リスキリング」をご紹介しました。
2つの展示からは、江戸時代の芸術やものづくりのレベルの高さだけでなく、情熱や向上心を持ち続けることの大切さが伝わってくるように思います。
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