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正義を貫いた日系人政治家の生涯

出石 直  解説委員

アジア系アメリカ人として初めて連邦政府の閣僚となり、同時多発テロ事件では運輸長官として空の安全確保にあたった日系人政治家ノーマン・ミネタ氏が今月3日亡くなりました。差別や偏見と闘った信念の政治家の90年の生涯を振り返ります。
担当は出石 直(いでいし・ただし)解説委員です。

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Q1、ミネタ氏にインタビューしたことがあるということですが。

A1、3年前にワイオミング州でインタビューしました。ご両親の出身地、静岡の新茶をお渡ししたところとても喜んで下さいました。ユーモアと笑顔を絶やさないお人柄でした。ワイオミング州は太平洋戦争中に日系人の強制収容所があったところです。ミネタ氏はここで少年時代を過ごしています。

3年前にアメリカで出版されたミネタ氏の伝記です。少年時代のミネタ氏の写真と鉄格子、本のタイトルは「エナミー チャイルド(敵の子供)」となっています。

Q2、「敵の子供」ですか?

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A2、少年時代の出来事がミネタ氏の生涯を決定づけたのです。
ノーマン・ミネタ氏は、1931年にカリフォルニア州のサンノゼで生まれた日系2世です。両親は静岡県の出身、移民としてアメリカに渡った父親は保険会社を営んでいました。暮らしぶりは豊かだったといいます。

ミネタ氏が10歳の時、一家は悲劇に見舞われます。旧日本軍による真珠湾攻撃です。両親の祖国日本と一家が暮らしていたアメリカが戦争に突入したのです。

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西海岸に暮らしていた日系人は“敵性外国人”と見做され、住む家を追われて人里離れた強制収容所に隔離されました。ミネタ一家が収容されたのはロッキー山脈の麓ワイオミング州の荒野につくられたハートマウンテン収容所でした。

(ミネタ氏)
「11月のことでした。風がとても強くて巻き上げられた砂が顔に当たりました」

収容所は粗末なバラックで、トイレや食堂は共同、銃をもった兵士が監視に当たっていました。

(ミネタ氏)
「周囲には鉄条網が張り巡らされ、サーチライトとマシンガンを備えた軍の監視塔がありました」

ミネタ一家はここで3年近くにわたって不自由な生活を強いられたのです。

Q3、日系人だけが強制収容されたのですか?

A3、同じ敵国だったドイツやイタリア系の移民には日系人のような大規模な強制収容は行われませんでした。しかも強制収容された日系人の3分の2は、ミネタ氏のようにアメリカで生まれアメリカの市民権をもつ2世や3世でした。

(ミネタ氏)
「正式な告訴も裁判もなく、ただ真珠湾を攻撃したパイロットと同じような顔をしているという理由だけで、12万人もの日系人が強制収容所に送られたのです」

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戦争が終わるとミネタ氏は大学を出て政治の世界に進みます。地元サンノゼの市長を経て民主党の下院議員として活躍しますが、収容所での経験が政治家としての原点になったと言います。他の日系人議員とともに当時の証言を集め、日系人強制収容の真相究明と補償の実現に尽力します。

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連邦議会に提出された報告書です。日系人の強制収容は、人種的偏見と戦争ヒステリー、そして政治指導の過ちに基づくものだったと結論づけています。

ミネタ氏らの努力がようやく実り、1988年に当時のレーガン大統領が謝罪と補償を行うための法律に署名、収容を経験した人にひとりあたり2万ドルの補償金が支払われたのです。

(レーガン大統領)
「私たちきょう重大な過ちをただすために集まりました。ここにいるミネタ下院議員とその家族は、彼が10歳の時に強制収容され、最初は競馬場に送られたそうです。日系人に対する強制収容は過ちであったことを認めねばなりません」

Q4、強制収容は過ちであると訴え続けた努力に感銘を受けます。

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A4、ミネタ氏は下院議員を20年務めた後、クリントン政権で商務長官に抜擢されます。アジア系では初めての閣僚でした。さらに共和党のブッシュ政権でも運輸長官に就任、党派を超えた抜擢は大きな話題となりました。

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運輸長官に就任した2001年の9月、ミネタ氏に大きな試練が襲います。ハイジャックされた旅客機が世界貿易センタービルなどに突っ込み3000人近くが犠牲になった同時多発テロ事件です。アメリカ本土へのテロ攻撃に社会は大きな衝撃を受けます。イスラム系住民に対する空港での安全検査を厳重にすべきだという世論が高まりました。しかしミネタ運輸長官は人種などを理由にした安全検査の導入に断固として反対します。安全検査は強化されましたが、すべての人が平等に扱われることになったのです。

(ミネタ氏)
「我々を強制収容したことが過ちであったと同様に、中東系やイスラム系だという理由で航空機への搭乗を禁止することなどできるはずがありません」

Q5、強制収容された経験が、イスラム系住民への差別を防いだのですね。

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A5、その通りです。人種や出身地による差別や偏見は許さないという信念を貫いたミネタ氏の行動は党派を超えて高く評価されました。2006年にはアメリカでもっとも権威のある大統領自由勲章を受章しています。
政界を引退した後もミネタ氏は、強制収容所の跡地を定期的に訪問し、自らの経験を語り継いできました。

(ミネタ氏)
「この場所を後世に残したいのです。あのようなことが2度と起きないようにするためのシンボルにしたいのです」 

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10歳の時に「エナミー チャイルド(敵の子供)」として強制収容されたノーマン・ミネタ氏。日系人の強制収容が始まってちょうど80年のことし、90年の生涯を閉じました。バイデン大統領は声明を発表し「彼はすべての人に平等に尊厳をもって接し、すべての人から尊敬された」とその死を悼みました。
ノーマン・ミネタ氏は、差別や偏見と闘い正義を貫き通しました。その生きざまは、今を生きる私たちにも多くのことを教えてくれるように思います。

(出石 直 解説委員)


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