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白根麻衣子「ガザ退避 いま思うこと」

国境なき医師団 スタッフ 白根 麻衣子

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私は、国境なき医師団のスタッフとして、今年5月からガザ地区に派遣されていました。仕事は、人事のマネージャーとして、パレスチナ人スタッフの採用や研修、給与の支払い、支援先病院への人材配置などを担いました。今月15日、イスラエル軍が突入したパレスチナ・ガザ地区北部にある『シファ病院』にも日常的に通っていました。国境なき医師団は、1989年からガザ地区で活動し、今回の軍事衝突の前までは約300人が活動し、けがを負った人ややけどの患者、それに伴う心のケアや感染症対策を行ってきました。きょうは衝突が始まった10月7日以前のガザ地区の様子や、衝突が激化してから、エジプトに退避するまでの3週間の避難生活について、また、今感じていることなどを中心にお話しさせていただきます。

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シファ病院は、外科や救急、産科を備え、700床のベッドを持つ最大の病院で、多数の重症患者を受け入れ可能な唯一の総合病院として、市民からは「ガザの心臓」と、命のより所にされている病院でした。
イスラエル軍突入の直前まで、シファ病院には600人の入院患者と多くの避難民がいました。中には40人の新生児、17人の集中治療患者も含まれます。しかし、ガザにはこうした患者さんを避難させたくても、燃料不足によって稼働できる救急車もありません。歩いて避難しようとして銃撃を受けたという人もいます。イスラエル軍が病院の周囲に迫る中、シファ病院にいた医療スタッフは「患者が安全に避難できるまで、自分たちは病院に残る」と全員で決意したそうです。

ガザ地区は「天井のない監獄」と呼ばれるように、周囲を壁やフェンスで囲まれ、人や物資の出入り、電気や水の供給が厳しく制限されてきました。産業に乏しく、失業率は45%を超え、国境なき医師団が人材募集をすると、1人の募集に対し1000人を超える応募が殺到することもあります。

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その様な中でも、一般市民の暮らしは、つつましく営まれていました。人びとは貧しいながらも、働き、子育てし、子ども達は学校に行き、週末には海岸やカフェにでかけ、家族や友人たちとの時間を楽しんでいました。

そんな日常が、10月7日以降、無残にも破壊されていきました。
その日は土曜日で、仕事は休みでしたが、早朝にミサイルや爆発の音で目が覚めました。

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窓の外を見ると数多くのミサイルが打ち上げられているのが見えました。私は2018年から2019年にもガザに派遣され、軍事衝突を見た経験もありましたが、その日の光景は今までに見たものとは比べ物にならない大規模なもので、これは大変なことが起きているのだと直感しました。

その直後から私たちの避難生活が始まりました。まず共同生活をしていた同僚のスタッフ全員で宿舎の地下の退避室に避難し、そこで数日を過ごしました。地下室では外の様子は見ることはできませんでしたが、昼夜を問わず、爆撃や爆発の音や振動が感じられました。1日1日がとても長く感じられました。

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その後、イスラエル軍による退避通告を受けて、南部に移動することになりました。移動の途中に市民の方に「車に乗せてほしい」と懇願されたり、避難したくとも自動車がなく、途方に暮れる人びとがいるのを見たりして、胸が張り裂ける思いでした。また道中、数えきれないほどの多くの建物が破壊されているのを見ました。中には私の知っている病院や学校、食事で訪れたことのあるレストランも破壊されていて、強い憤りを覚えました。

しかしそれは長い試練の始まりにすぎませんでした。その日から約3週間、ほぼ野宿の避難生活が続いたのです。避難所は北部からの国内避難民であふれ、避難所での生活環境は日に日に悪化していきました。日々足りなくなっていく食料と水をつなぎながら、なんとかギリギリの必要栄養を計算し、生き延びようと同僚たちと励ましあいました。苦しい中にも生活に秩序をもたせ、感染症に気をつけて衛生管理に気を配りました。南部においても空爆は昼夜問わず続き、ヘリコプターからの銃撃音も聞こえ、死と隣り合わせであることを覚悟しました。避難しろと言われても、もうガザに安全なところなどどこにもありません。

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10月末にガザ地区全体で携帯電話の通信が遮断された時も命の危険を感じました。食料や水の調達のために、パレスチナ人スタッフやお店との連絡も取れなくなってしまい、国境なき医師団の本部からの指示や情報もなくなり、心の支えとなっていた家族との連絡もできなくなりました。なにより、携帯電話が使えないということは、負傷者がいても救急車が呼べないことを意味します。助かるはずの命も助からない。絶望的な気持ちになりました。

11月1日、私たち外国人はラファ検問所からついにエジプトに退避しました。もちろん、やっと退避できたことへの安堵の気持ちはありましたし、退避に向けて尽力いただいた大勢の皆さんに感謝しています。ただ、この衝突が始まってからもできる限りの医療活動を続け、私たちの避難生活に寄り添い、検問所でも最後まで私たちを退避させるべく手を尽くしてくれたパレスチナ人の同僚を残していくことに非常に後ろめたさを感じました。しかし彼らは、私たちが無事にガザから出られたことを誰よりも喜んでくれたのです。そんな彼らは今現在も無差別な暴力が続くガザで、十分な食料や飲料水も電気もない避難生活を続けています。

日本に帰国してからもパレスチナ人の同僚何人かと毎日連絡をとっていました。彼らはいつも、「大丈夫なの?」という私の問いかけに、気丈にも、「大丈夫、この攻撃もいつかは止むよ」と返信してきました。しかし15日、シファ病院がすでにイスラエル軍に包囲されたであろう時間、「大丈夫?」という私の問いかけに対し、スタッフの一人から初めて「No」という短いメッセージが届きました。そのスタッフとの連絡はそれっきり途絶えています。

ガザで死と隣り合わせの1カ月を経て、日本に戻ってくると平和は尊いものだと改めて思うのと同時に、当たり前の日常は紛争や戦争によって一瞬で崩れてしまうものだと感じます。

争っている双方に非難されるべき点があります。ただ私は、自分の命の危険も顧みずに市民のために今も病院で患者の治療を行っている国境なき医師団の同僚や、すべての医療者、患者さん、そしてすべての一般市民に対する無差別な攻撃を非難し、即時停止を訴えます。

戦争にもルールがあります。国際人道法の下で、一般市民、病院、学校、すべて攻撃の対象にしてはならないはずです。イスラエル軍とハマスは、患者や医療スタッフ、一般市民に危険が及ばないようにするため、あらゆる予防措置を講じる責任があります。

日本に帰ってきた私に、ガザの同僚のために今できることは多くありません。しかし私は自分にできることは何でもやっていきたいと考えています。パレスチナ人の同僚が一番恐れているのは「国際社会がガザの中で起きていることを知らずに、自分たちのことを忘れてしまうのではないか」ということです。だからこそ私は引き続き証言を続け、こういった無差別な暴力が間違いであって、即時停戦に向けて国際社会が声を上げていくことが大切だということを訴えていきたいです。

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