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内藤正典「建国100年 トルコは何を目指すのか」

同志社大学 教授 内藤 正典

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トルコ共和国は今年で建国百年を迎えました。きょうは、イスラムと西欧という二つの文明圏の接点にあるこの国が、どんな自画像を描こうとしてきたのかを考えます。

トルコの前身はオスマン帝国というイスラムの国家で、その統治は、16世紀にはバルカン半島から北アフリカ、西アジアまで、広大な地域に及びました。

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しかし、19世紀以来、イギリスやフランスがオスマン帝国の解体と支配を進め、第一次大戦でオスマン帝国が敗れると、トルコ本土があるアナトリアもいくつかの国に分割されることになりました。

トルコは地図から消滅する寸前でした。それだけでなく、百年前の英・仏による一連の分割は、パレスチナ問題をはじめ、中東の民族・領土問題をつくりだしたのです。

そのころトルコでは、オスマン帝国に代わる新しい国をつくる闘いが始まります。

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軍人だったムスタファ・ケマル、後のアタテュルクを中心に、兵士と民衆が協力して、進駐してきた外国軍と必死に戦い、ついに1922年の9月、最後まで残ったギリシャ軍を撤退させました。

新政府は、第一次大戦の戦勝国との間に新たにローザンヌ条約を結び、1923年の10月29日、トルコ共和国の建国を宣言したのです。

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独立戦争の苦難の歴史から、トルコの憲法は、国土と国民は絶対に不可分だと規定しています。かつてのオスマン帝国は、さまざまな民族を統治する多民族の国家でしたが、新しいトルコ共和国は、トルコ民族の国家になりました。

建国当時、重大な問題は、宗教と国家の関係をどうするかにありました。前身のオスマン帝国はイスラム法で統治されていました。そして全世界のイスラム教徒の頂点となるカリフがいました。新政府はカリフの処遇に悩みましたが、建国の翌年に廃止しました。

国を率いるアタテュルクは独立戦争をつうじて、ヨーロッパ列強の力を知り抜いていました。これらの国と互角にやっていくには、西欧の諸制度を導入することが急務でした。

立法、行政、司法、教育などを西欧型につくりかえると、イスラムの出てくる余地はありません。

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1924年の最初の憲法では、国の宗教をイスラムとしていましたが、28年にはその条項を削除します。そして1937年の憲法改正で、世俗国家になることを宣言したのです。

国家とイスラムを切り離すという世俗主義の原則はたいへん厳しいもので、個人が公の場所で宗教を表すことも禁止されました。女性は、公的な場所では頭を覆うヒジャーブを取ることが求められました。

憲法で定めた国民と国土の一体不可分、そして世俗主義は、大原則として、改正や改正の発議も禁じられています。

しかし、この国家の骨格は、次第にきしみはじめます。

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争点の一つは、トルコの東部に多いクルド人の分離独立運動でした。1980年代には武装闘争とテロで独立を主張するPKK(クルディスタン労働者党)が台頭し、90年代を通じてトルコ軍と激しい戦闘を繰り返しました。当時、クルド民族としての権利も否定されていたので、対立は激化していきました。

もう一つの争点は、国家をイスラムから切り離すという世俗主義が、保守的なイスラム教徒の理解を得られなかったことです。
「国民の大半がイスラム教徒なのに、なぜ、イスラムに従って政治をすることが許されないのだ?」
こういう不満をもとに、イスラムで政治を変えようとする政党が次々に登場しては、軍部と憲法裁判所によって閉鎖させられました。

1990年代の末、ひどいインフレ、クルド問題、イスラム政党の台頭、それに99年にイスタンブール周辺を襲った大震災で、トルコは破綻寸前に追い込まれます。

そこに、現在の大統領、レジェップ・タイイプ・エルドアン率いる公正・発展党が登場しました。2002年の総選挙で圧勝して単独与党となり、現在まで政権を維持しています。

中心メンバーは、イスラムを政治に反映させようとするイスラム主義の政治家でしたが、それまでのイスラム政党とは一線を画しました。

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第一に、イスラムの法体系、シャリーアをトルコの法律に持ち込まない。それでいて、イスラムの道徳からみて正しいと分かる政策をとること。簡単に言えば、弱者の救済を目に見えるかたちで行うことです。

第二に、トルコに民主主義を定着させること。そのためには、軍部が政治に干渉できないようにすることが最大の課題でした。

第三に、自由の拡大です。保守的なイスラム教徒も自由に生きられるよう、ヒジャーブの着用を自由化しました。

そして、これらの改革を保障するために、EUへの加盟申請を本格化させました。自由と民主主義を掲げるEUに入れば、軍の政治介入は不可能になるからです。

2004年、EUは、人権や法の支配など、基本条件をクリアしたとして、翌年から正式加盟交渉に入ることを決定しました。

クルドを民族として認めクルド語の使用も認めました。死刑を廃止し、人権も各段の進歩を遂げました。今でもPKKとの戦闘は続いていますが、一般のクルド人を敵視することはありません。

しかし、一年もたたないうちに、EU各国では、「イスラム圏のトルコはヨーロッパではない」という声があふれ、トルコとの加盟交渉を中断してしまいました。その後、現在まで加盟交渉は進んでいません。

しかし、トルコはあきらめませんでした。EUがもつ優れた基準は、トルコの発展に必要だとして、どんどん取り入れていったのです。その結果、多くのトルコ製品がEU諸国に輸出され、トルコは高い経済成長を実現しました。

アメリカとの関係はどうでしょう?

トルコはNATO(北大西洋条約機構)の加盟国ですが、アメリカが軍事力で中東の問題を解決しようとする姿勢には警戒を強めています。

過去二十年、イラク戦争やシリア内戦などの混乱はトルコにも波及しました。内戦で国を追われたシリア難民を最大で400万人ちかく受け入れました。弱者には優しくというイスラムの倫理を実践した結果です。大変な負担でしたが、EU諸国とちがって、難民排斥の運動は起きていません。

政権は国民投票をへて大統領制に移行し、エルドアン大統領は強大な権限をもつようになります。地域の混乱から国を守るため、国民の多数が強いリーダーを望んだ結果でした。

2022年にロシアのウクライナ侵攻が起きた後、トルコは国連総会でのロシア非難決議に賛成してきました。しかし、アメリカが主導する対ロシア経済制裁には参加しません。

ウクライナ、ロシアの双方と友好関係を崩さない姿勢は、欧米のメディアから批判されますが、エルドアン大統領は動じません。むしろその立場から、黒海からの穀物の輸出合意をとりつけるなど、独自の外交を展開しました。

今年の10月、パレスチナのガザでハマスとイスラエルが衝突すると、一貫してガザへの人道援助と停戦を訴えています。多くの子どもたちが犠牲になったことで、エルドアン大統領は、イスラエルに激しい怒りをぶつけました。

そして、人権重視を掲げてきたアメリカやEUが子どもの犠牲を食い止めないことを、ダブルスタンダードだと厳しく非難しています。

百年前、ヨーロッパ列強によって消滅寸前に追い込まれた国土を回復し、独立を達成したトルコは、西欧型の国民国家の基盤の上に、イスラムの倫理で弱者を守る国としての姿を、いま、自画像として世界に示そうとしています。

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