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水町勇一郎「定年後再雇用 賃金制度の見直しは」

東京大学 教授 水町 勇一郎 先生

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今年七月、最高裁で定年後再雇用の賃金をめぐる重要な判決が言い渡されました。六〇歳定年後に嘱託職員として再雇用された従業員の賃金が、定年前と比べて大きく引き下げられたことの違法性が争われた名古屋自動車学校の訴訟です。

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この訴訟では、六〇歳で定年になるまで正社員として働いていた自動車学校の指導員が、六〇歳定年後は有期雇用契約による嘱託職員となりました。その際、仕事の内容は大きく変わらなかったにもかかわらず、月給は定年前の約四五%、賞与は定年前の約四〇%の水準に引下げられました。この定年前後での賃金格差が、労働契約法二〇条が禁止していた不合理な労働条件格差に当たると主張して、嘱託職員二名が訴えたのがこの訴訟です。

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この訴えに対し、第一審の名古屋地裁、第二審の名古屋高裁は、いずれも、これらの賃金格差のうち、定年退職時の賃金の六割を下回る部分は不合理と認められるとして、会社側にその範囲で損害賠償を命じました。
これに対し、最高裁は、この「定年時の六割を下回る部分は不合理」とした名古屋高裁の判断は間違っているとして、名古屋高裁に判断のやり直しを命じました。この最高裁判決の重要なポイントは、次の二点にあります。

第一に、基本給と賞与のそれぞれについて、その性質や目的を踏まえて格差の不合理性の判断をすべきであるとした点です。特に、この訴訟の基本給については、勤続給という性質だけでなく、職務給や職能給という性質をもつ可能性があったにもかかわらず、名古屋高裁がその性質・目的を具体的に検討することなく、格差の不合理性を判断したことを違法としています。
第二に、格差の不合理性を判断するにあたって、労使交渉の結果のみならず、その具体的な経緯も勘案すべきとした点です。名古屋高裁は、この訴訟で定年後再雇用の賃金を決定するにあたって労働組合との合意がなかったという点は考慮に入れていましたが、最高裁は、労使合意の有無という結果だけでなく、交渉の具体的な経緯についても考慮することを求めています。
この最高裁判決により、この訴訟を差し戻された名古屋高裁は、この訴訟における基本給と賞与のそれぞれの性質・目的を具体的に明らかにした上で、労使交渉の具体的な経緯も考慮に入れて、定年前後の賃金格差の不合理性を判断し直すことを求められています。

この最高裁判決がもつ意味をより広い視点から理解するために、この裁判の背景にある二つの問題について考えてみましょう。

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一つは、日本の雇用システムに内在する正社員と非正社員間の格差問題です。日本の雇用システムは、長期雇用慣行、年功賃金、企業別組合という三つの特徴をもつものとして展開されてきたと言われています。そして、この三つの特徴は、基本的に正社員のみに妥当するものとされ、パートタイム、有期雇用、派遣などの形態のいわゆる非正規労働者は、一般にその枠外に置かれてきました。これらの非正社員は、景気変動に応じて雇用調整の対象とされ、勤続によって賃金や地位が大きく上がることもなく、企業内の労働組合にも組織されていないことが多い労働者として位置づけられてきたのです。一九九〇年代後半以降、グローバル競争が激しくなるなかで、この低賃金で不安定な非正規労働者が増加し、正社員と非正社員間の格差問題は大きな社会問題となりました。そこで、二〇一二年の労働契約法改正により、正社員と有期契約社員間の不合理な労働条件格差が禁止されました。この不合理な格差の禁止がどこまで及ぶかが、本件の背景にある問題の一つです。

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もう一つの背景は、日本の雇用システムのなかでの高齢者の雇用や処遇をめぐる問題です。先ほど述べたように、日本企業の多くは長期雇用や勤続年数を重視した処遇をしてきました。そのため、日本では、年齢や勤続年数によらない処遇をすることは難しいと考えられてきました。その結果、アメリカやEU諸国で定められている年齢差別禁止法が、日本では今なお定められておらず、逆に、定年制など年齢を基準とした処遇を法律のなかに組み込んで政策を展開している状況にあります。日本の高年齢者雇用安定法は、雇用と年金の接続を図るために、企業に六五歳まで雇用を保障することを求めています。具体的には、企業が定年を定める場合には六〇歳以上とすることとともに、定年後も六五歳まで雇用を確保することを義務づけています。この法律は、定年後も六五歳まで雇用が確保されることを重視し、六〇歳以降、有期契約に切り替えたり、賃金を下げることを禁止してはいません。そのなかで、日本企業では、六〇歳定年後も六五歳まで雇用を保障する代わりに、有期契約社員として処遇を一定程度引き下げることが広く行われてきたのです。
この訴訟は、この二つの背景が交錯するなかで生じたものといえます。

これらの背景を踏まえながら、今回の最高裁判決が述べたことをもう一度振り返ってみると、次のことがいえます。

第一に、定年後再雇用の契約社員であったとしても、労働契約法二〇条の不合理な格差の禁止が及ぶことを確認した上で、定年後も安易に賃金の引下げを行うのではなく、それぞれの給付の性質・目的を具体的に明確にしながら、格差が不合理でないかを検討することが必要であるとしています。同様に定年後再雇用の際の賃金格差が問題となった二〇一八年の最高裁長澤運輸事件判決では、それぞれの給付の性質・目的を具体的に検討することなく年収ベースでの比較で賞与不支給の不合理性を判断していました。今回の判決は、このかつての年収ベースでの曖昧な判断ではなく、個々の給付ごとに具体的な判断をすることを求めている点に、大きな特徴があります。

第二に、賃金格差の不合理性の判断にあたって、単に労使合意があるかないかという結果だけでなく、労使間でどのような話合いがなされたかというプロセスを重視する判断をしています。この点は、正社員と非正社員間、さらには若手・中堅・高年齢層という世代間において、企業内の賃金のバランスをいかにとっていくかという難しい課題に対し、労使間での具体的な話合いを重視する姿勢を示すものといえるかもしれません。これは、労働組合のある企業だけでなく、労働組合のない日本の大多数の企業における労使間の話合いのあり方にも影響を与えうるものといえます。

第三に、賃金格差の不合理性を判断する前提として、正社員の基本給の性質・目的、例えば、勤続年数に応じた勤続給か、職務内容に沿った職務給か、経験や能力に応じた職能給か、あるいはこれらの複数の性質・目的を併せもつのかを明確にすることを求めています。ここでは、それぞれの企業の賃金制度の中心にある正社員の基本給がどのような性質・目的をもつのかを明らかにした上で、その性質・目的に照らして説明可能かという観点から、賃金制度全体がバランスのとれたものとなっているのかを改めて検討し直すことが求められているといえます。

少子高齢化に伴う深刻な人手不足やデジタル化に伴う働き方の大きな変革のなかで、人事制度や賃金制度の見直しが大きな課題となっています。今回の判決は、この大きな課題に対し、賃金制度全体をその足元から見直していくための基盤と方向性を示したものといえるかもしれません。

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