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武村雅之「関東大震災100年 歴史的教訓から都市計画を再考する」

名古屋大学 特任教授 武村 雅之

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首都圏に未曾有の被害をもたらした関東大震災から今年で100年が経ちます。震災からの復興を遂げた東京の街は、その後、第二次世界大戦後の経済成長の中で、世界屈指の大都会へと姿を変えました。そして今、私たちは、再び、「首都直下地震」にどう備えるのか、という大きな課題に直面しています。今日は、関東大震災の被害やその後の復興、そして、戦後の都市開発から、何を学び、生かすことができるのかを考えてみたいと思います。

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関東大震災は1923年9月1日に発生したマグニチュード8クラスの巨大地震によって引き起こされました。首都圏で死者・行方不明者10万5千人を数えました。その数は、記憶に新しい東日本大震災の約5倍ですが、当時の日本の人口が今の半分程度であったことを考えると、人口比で見れば10倍の被害だったことになります。また経済被害もGDP(国内総生産)の約37%に達し、これも10倍です。そのうち7割の被害が東京だったために、東京の地震と思われがちですが、実は震源断層は、神奈川県から千葉県南部にかけて広がっていました。
震源域から外れた東京で、これほどの大きな被害が出たのは、主に隅田川の東側の江東地域をはじめとする軟弱地盤上の木造密集地域で、住宅が倒壊し、次々に火災が発生したためです。折しも、台風の影響を受けた強風で火災旋風なども起きて、飛び火により東京市全体に被害が拡大してしまいました。結局、9月1日に発生した火災は3日の午前中まで延焼し続けました。
歴史を溯りますと、江戸・東京の街が、同じような規模の地震に襲われたのは初めてではありません。関東大震災から220年前、1703年の元禄地震では、地震規模はほぼ同じですが、江東地域にほとんど町がなかったために、死者数はおよそ300名で、直後の火災も起きませんでした。その150年後の1855年の安政の地震では、江東地域にすでに街はありましたが、その大半は武家地と寺社地で、木造密集地であった町人地はごくわずかでした。このため、火災による焼失面積は、関東大震災の20分の1に留まりました。
つまり、関東大震災による東京の被害は、明治維新以降のまちづくりの失敗が招いたものだったのです。富国強兵を目指した明治政府は、都市の基盤整備をすることなく江東地域に続々と工場建設を許したのです。満足な道路もない、公園もないところに、そこで働く人たちの粗末な木造家屋がすき間なくびっしりと建てられました。その結果、軟弱地盤上に広大な木造密集地が生まれ、そこを関東地震に襲われたのです。
その反省に立って震災の翌年から6年半をかけて行われたのが帝都復興事業でした。帝都復興事業は完璧な街づくりだったと私は思います。耐震・耐火はもちろんですが、国民的合意のもとで、公共性を第一に、首都として恥ずかしくない品格のある街にするという目標を掲げての事業でした。9月12日に出された東京の復興を宣言した詔書にも、「この事業は、特定の個人や企業の利益ではなく、市民一人ひとりのためのものでなければならない」と、公共性の重視が明記されています。現代の再開発とはかなり異なっていたことがわかります。
東京では焼け跡全域で土地区画整理が行われ、都心部の主要な道路は、ほぼ全てこの時に造られました。お金が足りず、地下鉄まで造ることができませんでしたが、「将来、必ず必要になる」と、主な道路で建設に必要な27メートル以上の幅員を確保しておいてくれました。そのおかげで、戦後、多くの地下鉄をスムーズに造ることができたのです。

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橋梁も震災時に大量の人が亡くなったことを踏まえて、耐震耐火構造を徹底するほかに、空の眺望を妨げないなど美観にまで配慮して、新たに400橋がかけられました。現在、隅田川にかかる見事な橋は、全て帝都復興事業によるものです。

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この他にも、国が隅田、錦糸、浜町の3大公園を、東京市が52の復興小公園と117の復興小学校を建てました。これらはいずれも地域のシンボルにもなる素晴らしいものでした。
しかし、その後の第二次世界大戦で東京の街は、再び焼け野原になってしまいました。戦後の東京は当時の15区から23区に拡大し、人口も220万人から、1400万人以上が暮らす大都会となりましたが、経済成長の中で、公共性より経済性、効率性が優先された結果、戦災で失った街の品格はいまだに取り戻せていないように私の目には映ります。そのはじまりは、1964年の東京オリンピックに便乗した開発でした。空襲から生き残った震災復興の遺産である公園、橋、水辺が次々と首都高速道路の建設で破壊されました。

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日本の交通の起点であった日本橋や帝都復興事業の代表的遺産である江戸橋の上空すれすれに走る首都高速道路の現状を見て、あれでいいと思う人はいないのではないでしょうか。
このような基盤整備を後回しにした利益優先の都市開発は、東京に多くの防災上の弱点を生み出し続けています。まず、人口集中の結果、郊外に生まれた木造密集地域。次に、戦後天然ガスが見つかった結果、地下水のくみ上げを放置し、拡大した、地盤沈下による大規模なゼロメートル地帯の存在。帝都復興事業によって地震危険度が比較的低いとされる都心部でも、2000年以降に行われた容積率緩和の影響で高層ビルが林立し、地震時に大量の帰宅困難者を生み出す原因となっているばかりか、多くの人々がエレベータに閉じ込められる危険性もはらんでいます。さらに、先ごろの東京オリンピックのころから、湾岸の洋上埋立地に生まれた大量のタワーマンションは、地震による地盤の液状化で道路などライフラインが途絶し、孤立化する危険性もあります。

中国の古典である老子に「企(つまだ)つ者は立たず」という一節があります。東京は目先の利益を追い求め、爪先だってスクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきたようにみえますが、これでは末永く立っていることはできません。関東大震災100年を迎えた今こそ、ロンドンやパリに並ぶ品格のある首都を目指し、50年先、100年先を見据えて行われた帝都復興事業に学ぶべきです。
奇しくも、コロナ禍を経て、リモートワークなど、働き方、暮らし方も変化しつつあります。さらに途絶えるてしまっている首都機能移転への国民的議論も必要です。私は街づくりには、市民の住み易さを最優先に考えることが重要だと思っています。市民一人一人が誇りに思える街だからこそ、皆で護ろうとする気持ちが生まれ、連帯意識もはぐくまれる。そのことがあってはじめて、防災意識も向上するということを忘れてはならないと思います。

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