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湯浅誠「居場所と目指すべき社会」

全国こども食堂支援センター・むすびえ 理事長 湯浅 誠

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あなたに居場所はありますか?
そう聞かれたら、なんとお答えになるでしょうか?
自宅と答える方は多いでしょう。
ご自宅のどこですか? 自室?リビング?お風呂?トイレ?そのすべて?あるいはいずれでもない?
「夜中にガレージに停まっている車の中で、ラジオを聴きながら、缶ビールを飲むこと」といった女性がいました。人それぞれだと思います。
今日は、居場所について考えることを通じて、私たちの社会のありようを考えたいと思います。

広辞苑によれば、居場所とは「いるところ。いどころ」と説明されています。
今、自分が居る場所が居場所なのであれば、今の私にとって居場所とは、この場所ということになりますが、しかし私は今、テレビカメラを前に慣れない収録で緊張しており、「このNHKのスタジオが私の居場所です」と言えるかというと、疑問です。ここには居場所感がありません。

実際の用法においては、多くの場合、人は 居場所感 を抱ける場所を居場所と呼んでいます。居心地の良くない場所は、現に自分が居る場所ではあっても、居場所感を抱けず、「居場所」と呼びません。

では、どのような場所に人は居場所感を抱くのでしょうか?
たとえば小中学生にアンケートをとると、約半数は学校を居場所だと答え、約半数は学校は居場所ではないと答えます。同じ〇〇小学校の3年1組でも、そこを居場所と感じられるこどももいれば、そうでないこどももいます。言うまでもなく、クラスメイトとの関係、教師との関係が影響するからです。

居場所感の中身を解明する鍵は 関係性 にありそうです。

居場所感と関係性の結びつき方は、多様です。
ヒトやモノ、自然との良好な関係性があれば、人はそこに居場所感を抱きます。また、居心地の悪い関係性から逃れられる場所に居場所感を抱く、というように、関係性と居場所感が逆の形でつながっていることもあるでしょう。はっきりしていることは、暮らしの中に居場所感を抱ける関係性のある場所が十分にある、たくさんある、という人の幸福感は高く、逆に、自分が居場所感を抱ける場所は 世の中にどこにもない、という人の幸福感は低い、ということです。中にはそれを理由に自殺してしまう人もおり、居場所の有る無しは、人間にとって切実な事柄です。

昔は、街に自由に立ち入れる雑木林があり、私はそこでチャンバラをやって遊びました。住宅街の中に空き地があり、草野球をやりました。駄菓子屋があり、そこでたむろしました。私の暮らす街からはすべてなくなりました。

自分がこどものころは、もっとたくさんのスペースが街中にあって、そこで人や自然と良好な関係をつくって居場所感を抱き、ときにしんどい関係から逃れて居場所感を抱いていた、そういうスペースや関係性を今の時代において復活させたい、新たに創り出したい、と願う大人たちが行なっている営みを、こどもの居場所づくり と呼びます。私が関わっている こども食堂 もそのうちの一つです。

こども食堂は、はじめて誕生してからまだ10年の新しい現象ですが、近年は毎年1000件以上増えており、もうすぐ全国の中学校数を超えます。
こども食堂が増えても、こどもの居場所が増えるとは限りません。学校があってもそこに居場所感を抱けないこどもがいるように、こども食堂があっても、そこに居場所感を抱けないこどもはいるでしょう。ですが、人々はその営みを止めません。なぜならたしかにその場とそこでの関係性に居場所感を抱くこどもがいて、それが手応えとなっているからです。自分たちは誰かの大切な居場所をたしかにつくれている、と。
こども食堂は、大人の居場所にもなっています。こども食堂は義務で行く場所ではありません。そして運営者は、ここで一緒に食べようと思ってくれる人を分け隔てなく受け入れたい、と思っている場合が多いです。8割のこども食堂は参加に条件なく、公園のように、来た人たちすべてを受け入れており、結果的に、6割以上のこども食堂には高齢者も参加しています。
そうして今、年間延べ1270万人の人たちが、こども食堂に参加するに至っています。

私たちは、こうした居場所づくりを推進しています。こどもの居場所づくり、みんなの居場所づくり です。
目指しているのは、 「どこも」と「どこか」 が両立した状態です。

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「どこも」とは、家庭も職場も、学校も地域も、こども食堂も高齢者サロンも、と、暮らしの中で過ごすさまざまな場が、どこもかしこも、居場所になる状態です。AもBもという形で、より多くの人によりたくさんの居場所がある状態を指します。
「どこか」とは、それでも多くの場が自分の居場所にはならないという事情を抱えた人はいますから、家庭がダメなら地域の居場所が、学校がダメならフリースクールが、リアルがダメならオンラインが、と、AがダメならBという形で、どんな人にも少なくとも一つは居場所がある状態を指します。
この「どこも」と「どこか」が十全に満たされたとき、私たちの社会はすべての人がつながりを感じながら幸福に生きられる社会になるでしょう。

私は、それが私たちの社会が目指すべき新しい経済成長の形でもあると考えています。
GDPだけを見れば、家族がそろって手料理を食べるより、一人ひとりがバラバラに外食した方が、より多くの金額が消費され、GDPが増えます。しかしそれが一人ひとりの幸福感を高めるかは、また別の話でしょう。
そうではなく、一人ひとりの幸福感を高めることを主眼に置くのです。成長をあきらめるのではありません。家族や地域を犠牲にしてでも成長 ではなく、一人ひとりの幸福感を高める成長を目指すのです。

人には、 がんばるから認められる という面と 認められたからがんばる という面の両方があります。両者の関係は、一般には「がんばるから認められ、認められたからよりがんばる」と、がんばることを起点に考えられがちです。しかし私たちは、生まれたとき何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ、育ててもらって、今があります。

私たち全員の人生は「認められたからがんばれて、がんばれたから認められる」と、認められることを起点に始まっています。
人は、認められることに主眼を置く場所に居場所感を抱きます。がんばってもいいが、がんばらなくてもいい。そう認められて初めて、がんばれるようなところが人間にはあるからです。
私たちはずっと、がんばることを起点に経済成長を考えてきました。そしてみんながものすごくがんばってきました。しかしこの30年間、日本はまともに成長しませんでした。成長したのは、日本よりも残業もしない、休暇もたくさんとる、日本ほどにはがんばらない国々でした。
もしかしたら、みんなすでに、「がんばらないと認められない」という回路ではがんばれなくなっているのではないでしょうか。

今、必要なのは「認められるからがんばる」という回路を、日本社会の中に復活・再生させることではないでしょうか。

こども食堂では、「ここだと、おうちで食べられない物を食べてくれる」という保護者の声をとてもよく聞きます。宿題をやっている娘の姿を見て、「こんなに長く集中していられる娘を見たのは初めてだ」と驚いていた保護者もいました。
居場所では、人は、ふだん出している以上の力を出します。それは成長の源泉です。それは誰かが「食べろ、勉強しろ」と叱咤激励しているからではなく、がんばるのもすごいけど、がんばらなくてもすごいよ、とその人を認めているから出ています。

人々が続々と居場所を立ち上げていく背景に、私たちの社会のありようや、進むべき未来についてのどのような願いがあるのか、もっと耳を傾け、人々の願いに沿った世の中をつくっていきたいと思います。

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