NHK 解説委員室

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牧野由美子「家族から見た牧野富太郎」

練馬区立牧野記念庭園・学芸員 牧野 由美子

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私の義理の父、牧野一浡(かずおき)は植物学者・牧野富太郎のひ孫にあたります。父は定年退職後に東京・練馬区にある、牧野記念庭園の学芸員になり富太郎の業績を顕彰することを決めました。私は、父を支えるため自分も企業を退職して学芸員資格をとりました。
練馬区立牧野記念庭園が新たに学芸員を配置してリニューアルオープンした2010年より勤務しています。️

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NHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルになった植物分類学者の牧野富太郎。日本の植物相を明らかにするという思いで沖縄を除くすべての都道府県を訪れ、採集・調査を行いました。様々な地でその足跡をたどる動きが起きています。その動きの大きさに驚嘆するばかりです。

牧野富太郎は、江戸時代の終わりの文久2年4月24日に高知県佐川村に生まれます。日本の植物分類学の黎明期に、外国の研究者が先行していた日本の植物について、日本に生息するどんな植物も見逃すまいと実地調査に励みました。

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生涯に発見・命名した植物は約1,500種類、収集した標本は約40万点、研究のために収集した書籍は約4万5千冊にのぼります。
今日は、大泉の地で過ごした富太郎の一面を家族の残したエピソードなどをもとにお話ししたいと思います。

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練馬区立牧野記念庭園は練馬区東大泉にあります。関東大震災を経験したことを機に貴重な標本や蔵書を火事などから守るため渋谷から郊外への転居を検討しました。妻・壽衛(すえ)が尽力し、元・書生の方などの協力により大正15年に64歳で移り住み、94歳で亡くなるまでの約30年を過ごした自宅と庭の跡地にあります。「我が植物園」と呼び愛した場所で、「わが庭はラボラトリーの名に恥じず」とも表現し、各地から取り寄せたものを植えて観察した研究の場でもありました。
富太郎が亡くなった翌年に東京都が整備し、その年に練馬区に移管され1958年に開園しました。
富太郎は、晩年に書いたある記事でこのように述べています。

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「十三人の子供は不幸にして欠けたものもあるが、みんな成長してそれぞれ独立をしている。子供たちから孫が生れ、孫から曾孫が生れ、幾人になったのか数えるのがむずかしいほど大勢になり、私は九十歳になった。親もきょうだいもなく、たったひとりぼっちだった私が、こんなに長く生き、そしてこんなに大勢になったということは、なにか不思議なような気がする。と同時にまことに仕合せな有難いことだと思う。」
波乱万丈の人生を、植物愛ひとすじに進んだ富太郎ですが、家族に囲まれて過ごした日々もかけがえのないものであったことと思います。

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春ちゃん、百ちゃんと呼ばれた、長男春卋(はるよ)と次男百卋(ももよ)は写真屋を営み、富太郎のポートレートの撮影も行っています。
壽衛が大泉に転居してわずか2年で亡くなり、その後三女巳代とともに富太郎を支えた四女玉代は、「娘からみた父の横顔」として
「学問の虫のような父には近づき難かったようなイメージが幼い頃にはありました。しかし今思い出すと、こわいなかにもユーモアと親しみがあったと思います。例えば庭に椿の花が咲いていると、それを父は採って私の頭につけてくれたことも再三ありました。私が病気をするとそれは心配してくれました。ほんとうに子煩悩な父でした。」
とし、中耳炎になった時に徹夜で看病してくれた話や服を買ってくれた話を語っています。
そして、三女巳代、四女玉代が結婚し家を出る頃、長女香代、次女鶴代が家にもどり富太郎を支えました。
鶴代の娘で富太郎の孫である澄子は、富太郎の様々な表情を孫の視点で語っています。

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「玄関入り口のところに水槽が置かれていて、ザゼンソウの花が咲いた時、祖父がその前にアグラをかいて両手で頭の上に輪っかをつくって仏炎苞(ぶつえんほう)のことを教えてくれた。そんなお茶目な祖父だった。」
全国で行われた採集会でも、老若男女を問わず富太郎の話の面白さは多くの人を魅了しました。家族に対しても楽しい語り口で植物について話していた様子がうかがえます。
貧しい生活を支えた家族はどのように思っていたのかと質問されることがよくあります。その回答の助けとなるエピソードがあります。
戦後間もなくの苦しい時期に、アメリカ進駐軍の軍人であるウォールヂーさんが訪問された時のお話です。富太郎と会えて喜んだウォールヂーさんは欲しいものは何かないかと尋ねました。この時、澄子は「チョコレートを!」と願う気持ちでそのやりとりを聞いていたのですが、富太郎は絵具がないので「英国製のこれこれの絵具」をと望みました。澄子は残念に思う気持ちもありながら、富太郎の仕事の意義を鶴代から伝えられて理解していたのですぐに納得をしたそうです。

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晩年、多くの時間を過ごした書斎での研究の様子についても語っています。「祖父は毎晩遅くまで研究をして、床につきパタンと音がしたと思ったらすぐに眠っていた。翌朝目が覚めて光が見えたら『あぁ、今日も命があった。今日も勉強するぞと思う』と言っていた。

ちょうど『いつまでも 生きて仕事に勤しまん また生まれ来ぬこの世なりせば』の歌のように。晩年は、書斎から双眼鏡で庭の様子を見ていた。部屋で勉強する時はいつも正座をしていた。仕事にくたびれると、絹糸を撚って和書の修繕をした。小さな鏝で本の角が折れたところを直す。とても器用だった。」
資料調査により小さな名刺箱に包装紙などをはり、印章箱として、使っていたことがわかりましたが、それも富太郎にとっては息抜きの一つだったのかもしれません。浪費家のイメージをもたれやすい富太郎ですが、成すべきことをするためには時間が足りず、少しでも合理的に物事が進むように、使い勝手の良い道具を使い、そして修理や手入れをしながら大事にしていた様子が遺品からうかがえます。
富太郎の研究の補助をしたり、マネージャーのように関係者やマスコミとの調整なども行っていた娘の鶴代は、父を尊敬しながらもやはり「家族」として支えていました。親子の関係が感じ取れる音声データが残っています。

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大変なことも沢山あったかと思いますが、富太郎を支えた家族のまなざしは温かく早くに亡くなった妻・壽衛の心配事の多くは解消されたのではないかと思います。

今日は家族の視点でお話しいたしましたが富太郎が関わった沢山の方たち沢山の植物、その数だけエピソードがあり牧野記念庭園では顕彰を続けていきたいと思います。

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