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山田久「最低賃金1000円超 次の目標は」

法政大学 教授 山田 久

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 最低賃金の全国加重平均は今年10月以降、初めて1000円を超えて、1004円となります。もっとも、その水準は国際的に見れば依然として低く、ヨーロッパ諸国はいうまでもなく、現時点では韓国を下回っています。そうしたなか、政府は一層の引き上げの方針を示しています。昨年以降物価が大きく上昇し、今後しばらくはその傾向が続くと予想されることもあります。1000円は通過点に過ぎず、更なる引き上げの必要性は多くが認めるところでしょう。
しかし、企業にとって最低賃金の引き上げはコスト増を意味します。とりわけ経営体質の弱い中小・零細企業にとって、手放しで賛成できる話ではありません。原材料コストや光熱費が高まるなか、少しでも経費を抑えたいのが本音といえます。実際、毎年の最低賃金の目安を決める政府の委員会では、近年、労使の意見が激しく対立しています。隔たりの大きい意見の妥協点を探り、最低賃金を今後どのように決め、いかなるペースで引き上げていけばいいのでしょうか。今日は、「1000円超時代」の最低賃金制度のあり方を考えます。

まず、これまでの状況を確認しておきましょう。

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地域別最低賃金は2016年以降、コロナ禍が発生した2020年を除き、3%をやや上回るペースで引き上げられてきました。それはこの間の平均賃金を上回るペースで、雇用への悪影響を懸念する声が聞かれました。実際には、パンデミック発生の影響を除けば失業率は高まらず、経済全体では大きなマイナス影響は出ていません。この背景には、次の要因を指摘できます。

第1に、引き上げは総じて景気回復局面に行われており、企業が負担増を吸収しやすかったからです。コロナ禍の影響が大きかった2020年には、引上げがほぼ見送られています。
第2に、労働力不足が続いており、人手を確保する観点から、企業にも賃金引き上げのインセンティブがあったからです。
第3に、そもそもかなり低い水準からの引き上げであったという事情もあります。従来、わが国最低賃金の水準は生活保護の水準を下回るケースがあり、2010年代半ばにその状態がようやく解消された段階でした。

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最低賃金ぎりぎりで働く労働者の割合を示す「影響率」という指標がありますが、これが大きいほど最低賃金の改定により、企業が強制的に増やすことが求められる人件費負担が重くなります。この影響率は、2015年には1割を下回っていました。
もっとも、途中中断はあったにせよ、2010年代半ば以降高めの引き上げが行われた結果、2022年の「影響率」はほぼ2割にまで高まりました。ちなみに、韓国は、前政権下、5年間で4割を上回るという、最低賃金の大幅な引上げを実現しようとしましたが、労働集約的な産業で雇用が減り、公約の実現を断念せざるを得なくなりました。その際の影響率が、2割をやや上回る状況だったのです。

今年2月に日本商工会議所等が行った調査をみても、最低賃金の引き上げが「負担になっている」と答えた企業は半数を超えていました。なかでも宿泊・飲食業ではその割合が8割を上回ります。また、2023 年度の最低賃金の引き上げ額が、ほぼ実績に近い「40 円」となった場合の対応や影響について、2割以上の企業が「設備投資の抑制等、人件費以外のコストの削減」と答えていました。従業員の「削減・採用の抑制」という回答も、正社員、非正規社員それぞれについて1割強となっています。
ただし、最低賃金引き上げに対して前向きの動きがみられる面も見逃せません。
2023 年度の改定に対して「引き上げるべき」と答えた企業割合は「引き下げるべきもしくは現状の金額を維持すべき」と答えた 割合を9ポイント弱上回ります。この背景には、物価環境が変わり、人件費を一定程度値上げに転嫁できるようになってきたことが指摘できます。

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最低賃金引き上げに伴う人件費の増加への具体的な対応として、3割弱が「製品・サービス価格の値上げ」、2割強が「新たな販路拡大の取組」を挙げています。
このように、中小企業には前向き姿勢も窺われ、最低賃金の引き上げの継続自体は是認されることといえましょう。もっとも、最低賃金引き上げが難しい企業も多く、影響率の水準からみて、従来以上にマイナス影響が生じないか、十分な考慮が求められる段階に入っています。

以上の状況を踏まえ、今後わが国の最低賃金制度を具体的にどのように見直せばいいのでしょうか。海外の動向も参考にして、次の3点を提案したいと思います。

第1は、1000円に代わる次の目標として「平均賃金に対する最低賃金の比率を設定する」ことです。過去十年、物価はほぼ安定的に推移していたため、1000円の実質的な価値は概ね変わらない状況にありました。そうしたもとで具体的な金額はわかりやすく、労使双方に将来的な最低賃金の水準をイメージしてもらうのに効果的であったといえます。しかし、昨年以降物価が予想外に上昇し、今後も高まっていくことが予想されます。ロシア・ウクライナ戦争の影響で世界的に一次産品の需給が逼迫しやすくなっているほか、安全保障の観点を経済効率より重視せざるをえない環境に変わりました。さらには構造的な人手不足で、物流や各種サービスのコストが高まっていくことが避けられない状況です。
インフレの時代には、物価上昇率によって実質価値が変わってくるため、物価変動の影響を受けにくい目標が求められます。この面で、平均賃金の上昇率は物価変動率との相関が高いため、それに対する比率は目標として適しています。実際、EUは平均賃金に対する最低賃金の比率に目標を設けています。平均的な所得水準に対する一定の割合を最低ラインに設定することで、低所得層の収入を底上げし、格差拡大を阻止する効果が期待できる面もあります。

第2に提案したいのは、「データやエビデンスに基づく政策決定の仕組みの強化」です。この点で参考になるのはイギリスです。公労使三者構成の委員会が設置されているのは日英共通ですが、わが国では1カ月程度の短い期間での話し合いのため、労使の意見の隔たりが大きく残ってしまいます。一方、イギリスでは研究プロジェクトを毎年行うとともに、労働者や企業に対して丁寧なヒアリングを行っています。手間暇をかけた政策決定プロセスが労使の合意を可能にしており、学ぶべき点といえます。

第3に、「産業別最低賃金の積極活用」も検討すべきです。わが国には、産業別労使の合意を前提として、例えば、労働力不足に悩むある地域の外食産業が、人材確保のために、最低賃金を独自に引き上げることができます。注目したいのは、労使が合意を形成する際に、地域ぐるみで人材育成の仕組みを共有したり、ブランドづくりを同時に進めれば、その地域の外食産業全体の収益力の強化が期待できることです。つまり、産業別最低賃金の仕組みをうまく使えば、その産業の生産性向上につなげることもできるわけで、ここに政府が支援策を講じるべきです。
今後、政府の有識者会議において、1000円達成後の最低賃金引上げの方針が具体的に検討されることになります。従来の在り方にとらわれない、幅広い観点からの見直しが行われることを期待したいと思います。

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