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片岡妙晶「誰かと生きるためのココロを」

教誨師(きょうかいし) 片岡 妙晶

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はじめまして。
仏法を広めることを専門とする僧侶、布教使の片岡妙晶と申します。

幼少期は不登校で、大人になってからも重度の鬱で引きこもったりもしました。
現在も、万事快調とは言い難い毎日ではございますが、そんな生きづらさから見えてきた人生の喜び、人との向き合い方というものを、本日はお話しさせて頂こうと思います。

小学五年生の頃から学校へ行かなくなった私は、「よくない意味」での特別扱いを受け、子ども心に居心地の悪さを感じていました。
腫れ物に触れるような扱いを受けて「私は人の迷惑にしかなれない」と感じ、「どうせ邪魔者だから」という思い込みに引っ張られ、すっかり性格も歪んだ私は、嫌われ体質が板についてしまいました。

居場所はないのが当たり前で、自分の味方は自分だけ。
誰かと仲良くなるには、合わせるのが当たり前で、役に立たない人間は存在を許されない。
ただでさえハンデを背負った出来損ないの私は、他の人よりも努力しなきゃいけない。

常に「何か失敗はしていないだろうか」と、緊張感に怯えながら生きてきました。

だからこそ、僧侶となって法座に立ったとき、涙が溢れそうになりました。

そんな状況だったからこそ、法座に参ってくれた人々が、熱心に耳を傾け、「また聞きたい」と喜んでくれたことが、本当に嬉しかった。

媚を売ったわけでも、取り入ったわけでもない。
私は私のやりたいことをしただけなのに、それを誰かが勝手によろこんでくれる。

「こんなことが有り得るんだ」

今までの世界観が打ち砕かれたような衝撃と共に、「こんな世界で私は生きていきたい」という目標が生まれました。

これを仏教の言葉で「自利利他円満」と言います。

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今映し出されている絵は、私が描いたものです。

元々は美大に通っていたこともあり、現在も作家としての活動を続けています。

しかし、一度は筆を置いたともありました。
それは「どんなに想いを込めて作品を作っても、見られるのは技術や値段・肩書きばかりで、想いは伝わらない」と感じてしまったからです。

歴史に残るような名画も、それを見て心震わせる観客に出遇えなければ、無いのと同じ。
作品だけじゃない、それを受け取る心があって、初めて「芸術」は生まれるのです。

「道具」のような利便益に対する評価とは違う、「存在」に対するよろこび。

この絵に関しても、必要性だけで言えば、辞書を引用し、文章を映し出すだけで充分でした。

しかし、私は絵を見せたいと思った。
なぜなら、私はこの話を通して、知識や情報ではなく、そこに込められた心を伝えたいと思ったから。

この絵を見て、何か少しでも「よろこび」を受け取って頂けたなら、それまさしく「自利利他円満」と言えるでしょう。

こういった「心の存在」によって、私たちの暮らしは豊かに彩られているのです。

しかし、この「心」が私達にもたらすのは「よろこび」だけではありません。

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「苦悩」もまた、「心」によってもたらされるのです。

どんなに皆の幸せを願い、努力して、気を配り続けても、間違ってしまう私達。
それは、どれだけ歳を重ねて、経験を積んでも変わりません。

人を傷付けたり、傷付けられたりしながら、生きていかなくてはなりません。

そんな心の存在を広めるべく、月に数回程度、お寺や施設にて「生き方」「人や心との向き合い方」を説いています。

また、この4月より新たな役職を拝命しました。
刑務所にて受刑者を更正へと導く「教誨師」という仕事です。

6月、少年院にて初めて講話を行いました。
そこでは、次のようなお話をさせて頂きました。

どんな聖者や悪人も、初めから、そう生まれるわけじゃない。
小さなきっかけの積み重ねで、そうなってゆく。

私が邪魔者として扱われるうちに、本当にそうなってしまったように。
私が僧侶として「有難い」と喜んでもらえたことで、そうなれたように。

人は、幾つになっても、人に育てられ、導かれてゆくのです。

私たちは、誰もが罪を背負った悪人だけど、誰もが反省を望める悪人です。

間違いながら、傷付け合いながらも、人と関わらなければ生きられない私たち。
だからこそ、誰もが安心して「間違い」を受け入れ、「悪かったなぁ」と、安心して罪悪感を背負い、だからこその更正に向かえる世界であって欲しい。

これもまた、改める本人と共に、受け取る誰かがあって初めて成立することなのです。

社会は人が作り、人は心が作る。

だからこそ、心には希望を宿して生きていきましょう。

苦しい現実に出会っても、それが全てだと絶望しなくて済むように。

今は、悪人だらけで、傷つけ合う世の中でも、それが永遠ではない。
今、誰かに睨みつけられているとしても、それが絶対ではない。

どんな人に出遇うかは私には決められないけれど、その人を「どう想うか」は私の好きにして良いんです。
目の前の人を「鬼」にするか「仏」にするかは、いつだって私の心一つ。

私を愛し、私を仏にしてくれる人がこの世には必ず居るのです。

それを忘れずに、今日だけ、今だけでも、誰かの心を受け取ってみてください。
そんなあなたのよろこびが、巡り巡って、誰かを救い、誰かを守り、命尽きた後も世界を彩り続ける。

これが、全ての人間に与えられた唯一の力なのです。
だから、みんなの為にも、私の為にも、幸せになって下さいね。

泣いて、怒って、恨んで、間違いを繰り返してしまったとしても、あなたのよろこびで誰かが救われることは変わらない。

だから、何度拳を握り、何人を傷つけたとしても、大切な人の手だけは、優しく包める私でありましょうね。
世界中の全ての人を愛し、慈しめる私にはなれずとも、誰か一人を愛することはできるはず。

その為に、私たちは「念仏」を勧めるのです。

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今の心に仏を宿し、握手を模した合掌の姿勢をとって、名前を呼ぶ。

いつか、目の前に現れた誰かの手を包み、「あなたに出遇えて嬉しい」とよろこび合えるように。

そんな心を広めることが、私の願いであり、務めであり、今日のお話の目指すところでした。

この御縁に触れた誰かの今が、少しでも彩られ、苦しみや悲しみが「よろこび」に向かうための「心地好い疲れ」になれば嬉しいです。

たった一人で世界中の人を幸せにすることは仏様にしか出来ないけれど、世界中の人がただ一人と向き合い、喜び合えたなら、世界平和は叶います。
それは、永遠ではないし、だからと言って争いや苦しみがなくなるわけではないけれど、目指す先が分かれば、今の苦悩も「よろこびの道中」として、一歩を踏み出せるようになるでしょう。

傷付く痛みを知った人にとって誰かの手を取ることはとても恐ろしく、難しいことだけれど、だからこそ、勇気を持って一歩を踏み出しましょう。

私たちは、誰かを殴りつけるその手で、誰かを抱きしめることもできる。
傷つく痛みを知っているからこそ、ぬくもりを選び、愛することができる。


だから、よろこぶことを諦めず、差し出された手を受け取り、よろこびあえる世界を我が身で証明してゆきましょう。

そうしていつか、あなたのよろこびが私のもとまで届く日を、心から楽しみにしています。

この度は、良きご縁をありがとうございました。

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