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西沢和彦「年収の壁」

日本総研 調査部 理事 西沢 和彦

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サービス産業の人手不足を背景に、130万円の壁と106万円の壁が改めて論点になっています。これは、パート主婦の収入がこれらの金額を超えると社会保険料負担が生じ、可処分所得が一挙に下がるため、それを回避するように、就労調整が図られるという問題です。
大まかにいえば、パート先の従業員規模が101人以上であると106万円、100人以下であると130万円がそれぞれ壁になります。社会保険料の自己負担の合計は約15%ですから、可処分所得の減少幅は十数万円におよびます。岸田文雄首相も、この問題に取り組む意欲を再三表明しています。問題の根本原因はどこにあり、どのような解決の道筋があるのでしょうか。なお、便宜的に夫、専業主婦という言葉を使いますが、妻と夫を逆にしても議論は成立します。また、ここでの専業主婦は、サラリーマンを夫に持つ場合に限定し、収入が全くない人だけでなく、一定収入以下の人も含むものとします。

1986年の年金改正
この問題の根本的な原因は、私たちがしばしば耳にする「国民皆保険」にあります。この言葉を分解しますと、国民全員が社会保険によってカバーされるということになります。
しかし、「国民皆保険」は矛盾を含んでいます。社会保険は、保険料を負担するからこそ給付が受けられる仕組みです。すなわち、負担と受益の対応を特徴としています。いわば自律的な個人が想定されており、理想的な姿ではあるのですが、見方を変えれば排他的とも言えます。社会保険を徹底すれば、保険料負担が出来ない人は給付を受けることが出来ないからです。他方、憲法25条では、社会保障は国の責務とされていますから、給付を受けることが出来ない人が多く出てきますと、国としての責務を果たせません。これが矛盾です。
1986年に大きな年金改正が行われる前のわが国の年金制度は、社会保険の考え方が徹底されていました。86年改正以前、年金制度は厚生年金保険、国民年金、共済組合の3つに完全に分立していました。専業主婦は、任意で国民年金に加入し、自ら保険料を負担し、国民年金を受給していました。こうした仕組みであれば、負担と受益が対応します。他方、国民年金制度に加入しなければ、老後に無年金となってしまいます。それは婦人の無年金問題と呼ばれていました。
そうしたこともあり、1986年の年金改正では、全国民共通の給付として基礎年金が設けられました。基礎年金は、現在、満額であれば月およそ6万6千円を受け取ることができます。問題となったのは、とりわけ専業主婦の妻について、その財源をどうするかです。社会保険を徹底するのであれば、専業主婦については任意加入から強制加入に切り換えて保険料を徴収するのが理に適います。あるいは、政府内の社会保障制度審議会では、現在の消費税に似たタイプの税を新たに導入してそれを財源に充てる案もありました。その案であれば、専業主婦は、収入がないか少ないがゆえに保険料納付が難しいという問題もクリアできます。これは、しばしば「基礎年金の税方式」と呼ばれる方法です。結局、そうした案は退けられ、専業主婦の妻は、保険料を負担することなく、その分の財源については、厚生年金保険制度あるいは共済組合全体で負担する仕組みとなりました。専業主婦は、第3号被保険者と位置付けられましたが、被保険者とは言っても書類上の話に過ぎず、実際には金銭的な負担をしていません。
こうした86年改正を要すれば、給付面に限っては皆年金へと踏み出しましたが、他方で、社会保険の特徴である負担と受益の対応を大きく崩すことになりました。専業主婦にとってみれば、収入を一定額以下に抑え第3号被保険者にとどまることができれば「お得」であり、就業調整の誘因となります。それは、人手不足を招くだけでなく、第1号被保険者すなわち国民年金保険料を負担している人、および、単身や共働き世帯の第2号被保険者には不公平にも映ります。

解決策は
では、どのような解決策があるのでしょうか。政府は、可処分所得の減少分を補填することによってパート主婦の就労調整を回避する策を検討しています。財源として雇用保険料が想定されているようです。もっとも、それは当面の人手不足解消のための暫定措置に過ぎないうえ、多くの問題があります。そもそも雇用保険料の使途として疑義がありますし、そうした補填が受けられない第1号被保険者、および、単身や共働き世帯の第2号被保険者から見て公平感がありません。さらにいえば、複雑です。制度はシンプルでなければ、国民は合理的な意思決定が出来ません。実際、政府もこうした措置を暫定的なものと 位置付けているようです。
今後、どのような議論が必要でしょうか。
まず、優先すべきは、正確な情報の共有です。例えば、130万円の壁と106万円の壁には、共通点がある一方、大きな違いもあります。最大の違いは、収入の範囲です。

130万円は、基本給だけでなく時間外手当や賞与、兼業をしていれば兼業先における収入などを包括的に含みます。この基準を超えると夫の扶養を外れます。他方、106万円の方は、106万円という基準は、実際には存在しません。厚生年金保険法に書かれているのは飽くまで雇用契約を結んだ勤務先における基本給月額8万8千円です。これは厚生年金保険に加入するか否かの基準です。106万円は、8万8千円を12倍した105万6千円を丸めた数字として慣例的に用いられているに過ぎません。従って、そこには、時間外手当や賞与、兼業先の収入などは含まれません。例えば、ある月に一時的に残業が多く発生し、その残業代を含めると年収が106万円を超えた場合などであれば、ただちに社会保険料負担が発生する訳ではありません。こうした情報が正確に共有され、不必要な就労調整を防ぐ必要があります。
次いで、現在政府が検討している可処分所得の補填案のような暫定的なものではない、恒久的な制度改正の議論です。ポイントは2つあります。

1つは、1986年の年金改正の是非に立ち還ることです。86年改正によって、全国民共通の給付として基礎年金が導入されはしましたが、財源については、第1号被保険者は定額保険料負担、第2号被保険者は厚生年金保険料から拠出、第3号被保険者は負担なしという、負担方法はバラバラで、かつ、社会保険の原則を大きく崩すこととなりました。パート主婦の就労調整はこうした仕組みがもたらした現象の1つといえます。仮に社会保険を徹底するのであれば、専業主婦も含め、きちんと国民全員から保険料を徴収する必要があります。ただ、未納も増えるでしょうし、皆年金の後退は覚悟しなければなりません。そうではなく、皆年金を優先するのであれば、86年改正時に社会保障制度審議会で提案されたように、基礎年金の税方式が有効です。それは、社会保険ではなく、児童手当や生活保護のように再分配と位置付けられることになります。

もう1つは、税から目を背けることなく議論することです。社会保障費用のうち自己負担を除いた部分の約4割は税で賄われています。税に向き合うことなく、社会保障制度のあり方を議論することは出来ません。昨今、税の議論は極めて低調ですが、岸田政権がこの問題にどのように取り組んでいくのか、行方が注目されます。

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