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松里公孝「ロシア・ウクライナ戦争の地理」 

東京大学 教授 松里 公孝 

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世界の注目を集めているロシア・ウクライナ戦争は、これまで主に三つの戦場で展開されてきました。

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キエフ州、チェルニヒフ州などウクライナ東北部、ドンバス、そしてヘルソン州などのウクライナ南部です。

(1.ドンバス)

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まず、今回の戦争の発端となったドンバス地域は、ドネツク、ルハンシクという2州からなっています。ドネツク州は、ロシア革命前の行政単位で言えば、エカテリノスラフ県、ドン・コサック州から成っています。エカテリノスラフとは「エカテリーナ大帝の栄光」という意味ですが、どちらかと言えば、こんにちのウクライナにつながる流れです。これに対して、ドン・コサック州は、こんにちのロシアにつながる流れです。
同様のことはルハンシク州にも言えます。つまり地域のアイデンティティからは、ドンバス2州はウクライナ共和国とロシア共和国のどちらに帰属してもよかったのです。
しかし、ソ連政府は、ウクライナ共和国を工業化の先進モデルにしようとしていたので、石炭や鉱物資源に恵まれ、鉄道建設も進んでいたドンバスをウクライナ共和国に含めました。
その狙いは当たり、ドンバスは、日本の地理の教科書にも載るような、ソ連を牽引する工業地帯になりました。ソ連末期のドンバスの民族構成は、ウクライナ人が約5割、ロシア人が4割強でしたが、工業化の中でソ連中から様々な民族が流入したため、ウクライナ人と言っても多文化主義的で、ウクライナ民族主義を嫌い、ロシア語で話す人がほとんどでした。

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そのため、ドンバスは、ウクライナで民族主義が盛り上がる度に抵抗し、分離主義的な傾向を示してきました。過去に、ドンバスの分離主義が高揚した例は3回ありました。①ソ連末期からウクライナ独立の初期、②2004―2005年のオレンジ革命、③2014年のユーロマイダン革命です。
1994年にロシアのエリツィン政権がチェチェン戦争を始めたため、独立当初のドンバスの分離主義は下火になりました。ドンバスの市民は、経済的にたとえ苦しくとも、息子を戦争にとられることのない平和なウクライナの方がロシアよりもいいと考えたのです。
独立当初の分離主義が下火になった第二の理由は、隣人です。ドンバスの隣にあったのはロストフ州という、当時はロシア南部の遅れた州で、ドンバスの人たちはこの隣人をやや見下していました。ドンバスの人々にとっては、ソ連のエリート州だった頃が一番幸せだったのですが、ソ連がなくなったいま、ロシア南部の田舎地方になるよりも、ウクライナのエリート州であり続けるのが次善の策と考えたのです。
ところが21世紀に入ると、ロシアの南部連邦管区の首都として発展したロストフ市と、ドネツク市の地位は逆転してしまいました。先日戦闘で破壊されたマリウポリの主要産業は冶金でしたが、設備は老朽化して大気汚染もひどかったです。ドンバスの炭鉱ではソ連時代以来の機械が使われ続け、しばしば死亡事故が起こりました。こうしたことから、オリガークと呼ばれる地域の大富豪に対する庶民の不満は蓄積していました。
2014年のユーロマイダン革命は、最初は、「欧州連合に接近することによってウクライナの社会経済を近代化する」という健全な目標を掲げていましたが、あっという間に暴力革命化しました。これに対抗して、ドネツク州では社会のマージナル層が州行政府庁舎を占拠しました。
クリミアやドンバスの住民は、革命の暴力の矛先は自分たちに向けられるのではないかと恐れ、住民投票を行って、ロシアに帰属替えしてロシアの軍事力で守ってもらおうとしました。クリミア住民はこれに成功しましたが、ドンバスでは住民投票のせいで対立がかえって先鋭化し、本格的戦争になってしまいました。

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ウクライナの紛争を親露・対・親欧米といった地政学対立だけで解釈するのは間違いです。2014年のドンバスの運動に「反オリガーク」という社会革命的な性格があったこと、暴力に対する住民のおそれと安全志向があったという点を付け加えたいと思います。

(2.チェルニヒフ州)

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次にチェルニヒフ州についてお話しします。

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ウクライナの大半は、もともとはポーランド領であるかオスマン帝国の宗主下にあったのですが、それが次第にロシアやソ連に併合され、ソ連が解体した時点で独立国家になりました。ポーランド支配からロシア支配に最初に移ったのがウクライナ東部で、17世紀半ばの出来事でした。ウクライナ南部は18世紀後半にオスマン帝国の宗主下からロシア帝国に移り、ロシア支配は相対的に短いのですが、移民の入植により建設された地域なので多民族的になりました。この東部と南部が、親露的と言われていたのです。
ロシアがウクライナ侵攻を始めたとき、ロシア軍は、ベラルーシからウクライナ北東部へ、クリミアからウクライナ南部へ入ってきました。
プーチン大統領は、「ウクライナにおけるロシア語系住民の保護」を戦争目的として掲げましたが、皮肉にも、ロシア語話者が大多数の東部や南部の州民に砲弾を浴びせることになりました。
少なくとも今回の戦争の前までは、ウクライナやモルドヴァの地方住民、特に高齢者層の中では、プーチン大統領のファンが多かったです。威厳ある統治を行っていること、ウクライナやモルドヴァに比べればロシアの生活水準や年金が顕著に高いことから、尊敬を集めていたのです。ロシアの砲弾の的になったチェルニヒフ州の住民は、「プーチンに裏切られた」と感じたでしょう。

(3.ヘルソン州)

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3月末には、ロシア軍は、北部のキエフ州、チェルニヒフ州から撤退しました。ところが南部のヘルソン州からは撤退せず、しかも、この州をロシア連邦に編入するかのような政策をとっています。

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ロシアがヘルソン州にこだわる第一の理由は、クリミア対策です。降雨量が足りないクリミアは、ヘルソン州から水供給を受けていましたが、ロシアに併合されてからは、ウクライナ側は水供給を止めていました。また、ウクライナの活動家がヘルソン州の高圧電線を爆破して、クリミアを数日間停電に追い込んだこともありました。経済的にも、ヘルソン州から農産物を購入することで、クリミアの観光業は成り立っていました。
ロシアがヘルソンにこだわる第二の理由は、ヘルソン州がオデサ州への橋頭保になるからです。オデサは世界的に有名な海港であり、ロシアは領土的野心を抱いております。
オデサの経済的魅力に加え、2014年のユーロマイダン革命中に、まさにオデサで労働組合会館放火事件が起こりました。これは、親露派活動家が立て籠もった労働組合会館にマイダン革命支持者が放火し、40人以上が犠牲になった痛ましい事件です。犯人は一人も捕まっていません。
プーチン大統領は、ドンバス2共和国を国家承認した演説で、オデサ放火事件にわざわざ言及し、「自分たちは犯人の名を知っているので、必ず逮捕して裁判にかける」と決意表明しました。5月9日の第2次世界大戦・戦勝記念日の黙祷でも、大戦の犠牲者や今回の戦争の戦死者と合わせて、オデサ放火事件の犠牲者を黙祷の対象に含めました。
つまり、8年前のオデサ労働組合会館放火事件を蒸し返して処理するということが、プーチンの一種の戦争目的になってしまったのです。
しかし、8年前の大量殺人事件に関与した人たちが、今日のオデサにのほほんと住み続けているとは考えられないので、これは奇妙な戦争目的です。

今日は、ロシア・ウクライナ戦争の舞台となったドンバス、チェルニヒフ、ヘルソンという3地域を地理的に概観しました。視聴者の皆様が、この戦争を理解する助けになれば幸いです。

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