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ウクライナ侵攻 ロシアの民族主義

ロシア研究者 植田 樹 

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過去と現在、未来は一続きで、つながっています。これは人も民族も同じであるように思います。

ウクライナでのロシアの軍事行動は、私には、第二次世界大戦前夜のドイツでの「ミュンヘン会談」を思い起こさせます。1938年、英仏独伊の首脳会談でした。ナチス・ドイツのヒットラー総統は、この席で「隣の国・チョコスロバキアのズデーデン地方にはドイツ人が大勢、住んでいる。だから、ドイツに併合されなければならない」と主張しました。
英仏はヒットラーを宥めるために、ズデーデン地方の割譲、つまり併合を容認しました。その宥和政策がヒットラーのさらなる征服欲をかきたて、次にポーランド分割、第二次世界大戦へと発展しました。

この過去の教訓は、私達の現在と未来にとっても、大変、重大な意味を持っています。

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今から30年程前、東西の冷戦が終わった時、ソビエト連邦のゴルバチョフ大統領は、「ヨーロッパ共通の家」という構想を唱えました。ロシアもヨーロッパの家族の一員になろうとしました。そのソビエト連邦が解体された時、多くの人々が「新しいロシアは、エリィン大統領の下で、普通の国―平和共存の国になるだろう」と期待しました。しかし、今のプーチン氏が大統領に就任すると、そうした期待は外れ、ロシアは独自の「強いロシア」の道に突き進みます。

プーチン大統領の政治の世界への登竜門は23年前のチェチェン紛争でした。当時、プーチン首相は、ロシアから独立をめざしたイスラム教徒に対して、無差別の大規模、苛烈な軍事作戦を行って鎮圧しました。
当時、この取材にあたった私に対し、ロシア政府の人権問題を監視していた国会議員は、「これは自分の国民に対する無差別の大量虐殺(ジェノサイド)だ。スターリンですら、これほどの無茶はしなかった」と嘆いたことを、今も鮮明に憶えています。

この時、すでに彼の作戦は、ロシア国内でも、「大量虐殺(ジェノサイド)」という言葉で形容されていたのです。今のウクライナでの作戦は、そのチェチェン紛争の非情さを、再現するものです。

プーチン氏はソ連時代のKGB(秘密警察)の将校でした。彼の「物の考え方」は今も、
そのソ連時代の秘密警察の思想が基本になっているように見えます。
KGBの思考の基本は「マキャベリズム(権謀術数主義)」と「シニシズム(没道徳性)」にあったと言われていました。

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16世紀のイタリアの外交官・マキャベリはこう書いていました。
「目的のためには手段を選ばない。国家の利益のために、するのなら、いかなる非道徳的行為も許される。必要なら苛酷な政策、嘘や欺瞞、破廉恥な事もためらってはならない」

今のウクライナ戦争の背景にも、こうしたマキャベリズムの冷徹な意思が働いていると、私は見ています。

では、ロシア国民はどう考えているのでしょう?
プーチン氏を支持する「民族主義者」について言いますと、それは「ユーラシア大陸の民族」の古来の精神を受け継いでいるのだと、私は考えています。「ユーラシア」はヨーロッパとアジアにまたがる広大な大陸です。ロシア人の祖先は、そこに定住する農耕民族でした。有史以来、周辺の遊牧、騎馬民族から入れ替わり立ち替わり、侵入されました。そして、極めて長い間、異民族の苛酷な支配を体験してきました。ロシア人が、その後、立場を逆転し、強い民族、大きな国家となってからも、外敵に対する警戒心と防衛本能は変わっていません。
しかし、弱者の時代の「防衛本能」は、強者の「攻撃的な防御の本能」に変わりました。それは「領土拡大」と「勢力圏確保」への強い執着、こだわりが基本になっています。

過去に、ロマノフ王朝の皇帝たちはフランスのナポレオンなどとの間で何度も、ヨーロッパやポーランドを自分たちの勢力圏に分割する取り決めをしてきました。その後のソ連のスターリン首相も、ドイツのヒットラーやイギリスのチャーチル首相との間で同じような勢力圏の分割を取り決めました。
         
その「ソビエト連邦共和国」も、また、東ヨーロッパ諸国が加わった軍事同盟「ワルシャワ条約機構」も表向きの政治イデオロギーや軍事戦略のタテマエだけではありませんでした。
当時のロシア人のホンネでは、どちらも「ロシアの勢力圏」という意識が強かったのです。

今日のウクライナ侵略も、ロシアの動機は、一般に「NATOの東方拡大に対する反発であるとか、軍事的な危機感によるものだ」と説明されています。しかし、そう解釈するだけでは、明らかに不十分です。「ウクライナを自分たちの勢力圏」と見なし「勢力圏を手離さない」と決意しているのだと、考えるべきでしょう。

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この戦争では先月、黒海でロシアの黒海艦隊の旗艦である巡洋艦モスクワが撃沈されました。私は直ぐに、「クリミア戦争」の歴史を思い起しました。

ロシアは、今から170年程前、イギリス、フランス、トルコ軍を相手に歴史に残る大きな戦争をしました。そして、黒海のクリミア半島が決戦場になりました。黒海艦隊の基地は英仏軍に包囲され、基地は陥落、ロシアは屈辱的な講和を余儀なくされました。

作家ドストエフスキーは、この時のロシア人の民族主義者の屈辱感と屈折した心情を代弁して、こう書いています。

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「ヨーロッパは我々を途方もなく嫌っている。我々を一度たりとも、自分たちの仲間―
ヨーロッパ人と見なしたことがない。唯、「厄介な余所者」、「何でも破壊して喜ぶ“野蛮人”」と見なしている」       

ロシア人が抱く、この絶望的な「疎外感」は残念ながら、ウクライナ問題を契機に近未来における、ロシアとヨーロッパの関係の底流になることは避けられそうにありません。国際社会における、ロシア人の孤立感は深まり、欧米に対する不信感も、一層強まるように思います。

軍事作戦を始めてから、ロシア国内ではプーチン大統領に対する支持率が驚異的に高まっています。これは政府が国民に「事実と違う情報」を流しているからだと、言われています。
                     
その昔、一党独裁のソビエト時代にも、情報統制と洗脳が行われていました。ロシア人のある学者は、当時―今から100年前に、こう書いています。

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「民衆に向かって嘘や欺瞞を執拗に流し続ける罪はとても重い。洗脳の言葉は民衆の心を束縛し、心を歪める。悪事を正当化するために広められる嘘や欺瞞は民族の精神を堕落させる」

今、戦争を支持しているロシア国民も、「騙されている」という点では、今の政治体制の被害者でしょう。
プーチン大統領はウクライナ人を苦しめているだけではありません。自分の国、ロシア国民も不幸にしているのです。

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