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施行75年 憲法議論の論点

京都大学 教授 曽我部 真裕 

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 憲法記念日である5月3日は、1947年のこの日に日本国憲法が施行されたことに由来しています。今年の憲法記念日は75回目であり、1つの節目となりました。今回は、現行憲法の75年はどのようなものだったのか、現在盛んになっている憲法改正論議をどう見るのか、さらには今後の憲法論議の課題といった点についてお話をしたいと思います。

 まず、現行憲法の75年間はどのようなものだったのかという点についてです。日本国憲法そのものは、立憲主義と民主主義という普遍的な原則を踏まえたものとして、基本的には自由主義国の憲法として標準的な憲法だと考えます。ただ、日本の歴史的な経緯を反映するものとして特殊性のある規定もあり、それが天皇制と9条です。政治の場での憲法論議がこの2点に集中することにはこうした背景があると思います。

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 天皇制については、憲法第1条で国民主権と象徴天皇制を宣言し、第2条で世襲制を残しながら、第4条にもあるように天皇は国政に関与しないこととしました。天皇制は、戦前に強調された日本の国体の核心的な要素なので、それを象徴天皇制に組み替えつつも残した日本国憲法は、妥協的であるとも言え、かつては、保守派からも革新派からも批判を受けてきました。

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 9条については、平和主義自体は各国の憲法の規定でも珍しくありませんが、戦力を保持しないという第2項は日本国憲法の突出したところで、その実現可能性をめぐって議論が続いてきました。
 これらの日本国憲法に特有の規定をめぐって政治の場で激しい対立が続いてきた一方で、憲法そのものの改正は一度も行われたことがありません。このことは、他国の憲法と比較したとき、日本国憲法のもう1つの際立った特徴となっています。ただ、一度も改正されていないことそのものが、改正の必要性を示す論拠に直ちになるわけではないのは言うまでもありません。むしろ、これまで、切実な改正の必要性がなかったということも言えると思われます。
 どういうことかと言えば、まず押さえておくべきこととして、日本国憲法は世界各国の憲法のなかでも屈指の簡潔な憲法であるということです。

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こちらのグラフは、主要先進国に加えて世界最長だと言われるインドと、最も簡潔だとされるモナコを加えた各国の憲法の英訳版について、それぞれの文字数、正確には単語数を調査した結果を示したものですが、日本国憲法が主要先進国の憲法の中ではもちろん、世界の中でも極めて簡潔な部類に入ることが見て取れます。
このことが意味するのは、憲法レベルで決められていることがらが多くなく、法律に委ねられている部分が多いということです。つまり、憲法を改正しなくとも、法律の制定によって実現可能なことが多くあります。また、政府が、9条の解釈を行うことによって、古くは自衛隊の存在を認め、近年では限定的な集団的自衛権を行使できるものとしたことが代表例ですが、憲法解釈によって対応できたことも重要です。政府が柔軟に憲法解釈を展開できることについては批判もありましたが、それを統制できる仕組みが十分でないのが実情です。さらに、9条の関連でいえば、日米安全保障条約は、日本の安全保障体制の根幹に関わる重要な法ですが、在日米軍は9条の制限を受けないこととなっています。
 次に、第2のテーマである近年の憲法改正論議の評価について見てみましょう。 憲法改正論議を考える上でのポイントはいくつもありますが、その1つは、今見てきたようなこれまでのあり方をどう評価するかということにあります。
そのほか、最近では、緊急事態条項の導入の是非に注目が集まっています。その背景には、東日本大震災をはじめとする大災害の頻発、中国やロシア、北朝鮮といった近隣諸国の対外強硬路線を受けた安全保障環境の緊迫化などに由来する懸念があります。もっとも、一口に緊急事態条項といっても具体的な内容は様々です。

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現在、政党の方から行われている具体的な提案にあるものとしては、政令制定権の拡張と国会議員の任期延長とがあります。
前者は、緊急事態において、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができるとするもので、その場合、事後に国会承認が必要だとされています。後者の国会議員の任期延長は、緊急事態において、選挙の実施が困難なときは、各議院の3分の2以上の多数で、任期の延長が可能だとするものです。このほか、現在の日本の改憲論議では具体的な提案はありませんが、緊急時には平時では認められないような基本的人権の制限を認めるといった規定も考えられます。
 確かに、世界各国の憲法のほとんどで緊急事態に関する規定があると言われることからすれば、緊急事態条項は、憲法の標準装備であるとも考えられます。

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こちらのグラフは、世界各国の憲法のうち、緊急事態条項をもつもの、及び、その中でも緊急時の人権制限を定めるものの割合を、年代別にまとめたものですが、緊急事態条項を設ける憲法は戦後ほぼ一貫して増加し、今日では9割以上がこうした条項を持っていることが分かります。また、緊急時の人権制限を定める憲法も増加しています。
こうしたことからすれば、日本国憲法にこの種の規定がほとんどないことは適切なのかを議論することは自然ともいえます。ただ、ここでも、世界各国の例と違うからということ自体は改正の理由にはならず、まずは緊急事態条項を憲法に置くことの意味を考える必要があります。緊急事態条項を憲法に置く意味は、緊急事態にあって政府に特別の権力を与えると同時に、その限界を画するというところにあります。
 そうすると、どのような緊急事態を想定するのか、それに対応するためにはどの程度の権限を認めるべきなのか、濫用がなされた場合の歯止めや責任追及の方法はどうするのか、などといった点を十分に議論し、その基本的な部分を憲法の条文に書き込んでおく必要があります。十分な議論が行われるためには、災害や防衛上の有事など、緊急事態の種類ごとに存在する既存の政府の諸部門の知見や政策論議の蓄積を踏まえ、緊急事態における対処シナリオ全体を検討する中で必要な規定を憲法に置くという視点が求められます。
 このことは、第3のテーマである今後の憲法論議の課題の1つと関連します。今述べた点を言い換えると、憲法改正論議の際に、憲法だけを見ているのでは不十分であり、憲法の規定を具体化する法令や政策も視野に入れて検討する必要があるということです。こうした観点から見ると、現在の憲法改正論議の体制には課題があるように思われます。
 すなわち、憲法改正論議は、各政党のほか、公式には衆議院と参議院とにおかれている憲法審査会で行われています。そこでは、基本的には日本国憲法そのものの条文改正の是非が検討されており、憲法のそれぞれの条文を具体化する法令や政策の全体像とは切り離されています。それとも関連して、憲法審査会での議論の中心は、名実ともに国会議員であり、官僚の補佐がほとんどありません。実際、憲法そのものを所管する省庁は存在せず、憲法改正論議において政府の存在感は薄いものとなっています。その結果、専門的な知見を提供したり意見の調整を図ったりすることが難しくなっており、このことが憲法改正論議が進展しない理由の1つとなっていると思われます。また、専門的な知見の提供に関しては、憲法の専門家の関与がほとんどないことも指摘しておく必要があるでしょう。以上、憲法論議の課題の1つは、論議を行う体制が不十分ではないかということでした。
 憲法論議の課題としてもう1つ挙げておくべきことは、改正のテーマについてです。冒頭に述べた通り、日本国憲法は、立憲主義と民主主義という普遍的な原則を踏まえた憲法で、これに平和主義を加えた基本原則に変更の必要性はありませんが、具体的な仕組みに関してはアップデートの余地はあるでしょう。

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立憲主義と民主主義の基礎にある日本国憲法の根本的な価値観は、憲法第13条に示されている個人の尊重の原理です。これは「誰もが自分らしく生きられる社会の実現」というように言い換えることができます。現在提案されている憲法改正のテーマは、特に与党側からの提案は、緊急事態条項をはじめ、国家の権力を拡大する方向のものが多いのですが、個人の尊重の理念に少しでも近づくための憲法論議も重要です。例えば、デジタル化や家族の多様化に対応するためなどに、新たな基本的人権の規定が必要ではないか、衆議院解散権の制限や臨時国会召集手続の改革、独立機関の強化など、政府の権力に対する歯止めが必要ではないか、あるいは民主主義のアップデートのために国民の政治参加の新しい仕組みが必要ではないかといった観点から、憲法およびそれに関連する法制度を常に見直していくことが求められます。 

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