NHK 解説委員室

これまでの解説記事

「所有の文明から存在の文明へ ~グランド・リセットの機(とき)~」(視点・論点) 

ユネスコ 元事務局長顧問 服部 英二

s220411_007.jpg

 「地球の砂漠化は人間精神の砂漠化が招来した」、これが私の主張です。

過去300年間、人類は森の70パーセントを伐採し、地下資源を簒奪し、生態系を破壊してきました。毎日120の生物種が姿を消しています。しかもそのスピードが年々加速しています。専門家は、地上の動物の総数の60パーセントは家畜、36パーセントが人間、野生動物の数は実に4パーセントに過ぎない、と言います。 ここ数年、世界に起こっている異常な自然災害、旱魃・大洪水・巨大ハリケーン・消えない山火事等を見る時、想いだすのはフランスの思想家ミシェル・セールが15年前「地球との和解」というUNESCOのシンポジウムで発した言葉です。

 「人類に切り刻まれた自然は、いま沈黙の内に再結集し、人類に報復しようとしている。」

本日は、地球と人類をこのような危機に陥れた最大の事件を、解明して見たいと思います。

 それは「自然との離婚」という事件でした。

 17世紀、近代科学の父とされるデカルトは「人間は自然の主人であり所有者である」と言いましたが、まさにそれが現実の姿となりました。

人間が神の座に着いたのです。
その昔エデンの園の知恵の樹の下で、アダムとイヴに「その実を食すればおまえは神の如くになるであろう」と告げた蛇の言葉は、嘘ではなかったのです。

 科学革命による近代文明は、西ヨーロッパという一地域に起こりますが、瞬く間に世界文明となりました。日本もまた「文明開化・富国強兵」を叫んで同じ道を進み、やがて20世紀という戦争の世紀に突入します。

s220411_001.png

 デカルトの目は神の目です。地球すなわち大自然を外から見ています。自然はもはや客体すなわち対象なのです。自分はその中にいません。「我思う、故に我あり」のCOGITOは超越体なのです。しかもその中に感性や霊性は入っていません。考えるのは理性のみです。全体から一部を抜き出すことを抽象Abstractionと言いますが、デカルトの「我」は人間の抽象化であり、全人性の疎外Alienationです。

 すべてを客体化し、それを外から観察する学問の姿勢を「科学」と言います。
 では、そのような科学の爆発が何故ヨーロッパという、それまではアジアに比してむしろ後塵を拝していた一地域に起こったのか、を考えましょう。
 それにはヨーロッパの生い立ちを見なければなりません。

s220411_005.png

 これがヨーロッパの姿です。ギリシャ的理性とヘブライ・キリスト教的信仰の融合です。
実はそれは簡単なことではありませんでした。「理」と「不条理」という相入れないものの融合だったからです。しかし4世紀、ローマ帝国によるキリスト教の公認により、砂漠の神は緑のヨーロッパに導入されます。そこではやがてキリスト教の教義をロゴスで説くスコラ哲学という学門が生まれ、それは13世紀、トマス・アキナスが書いた『神学大全』によって頂点に達します。アリストテレスの『自然学』と『形而上学』を援用したそれは「黄金の知」と呼ばれ、西欧思想の座標軸となりました。
 しかし本来水と油のように相容れないものである「理」と「信」は、やがて再分裂を始め、15世紀~16世紀、ギリシャ的理性はイタリアのルネサンスに、ヘブライ的信仰はルター・カルヴァンの宗教改革に姿を変えて行きます。科学革命・産業革命・情報革命はルネサンスの延長上にあります。

 ここからが本日の要点です。ヨーロッパではこの分裂した二つの間に「真理」を巡る壮絶な戦いがあったということです。それは、異端審問や魔女狩りで知られるように、自然科学とキリスト教神学の戦いでした。ヨーロッパはその矛盾を「二重真理」説で切り抜けてきたのです。
つまり「知識に関わる真理」は科学、「倫理に関わる真理」は教会、という「棲み分け」です。私が注意したいのは、この棲み分けにより科学は「善悪に関する免罪符」を得た、と言うことです。科学はValue free〔価値を問わず〕なのです。
ちなみに東洋にはこの棲み分けがありません。従って真理は恒に倫理を含むものでした。

17世紀、この真理を巡る戦いはついに科学の勝利で終わりを告げます。
この長い戦いに勝利した科学は、まるで発車台から打ち上げられたロケットの様に上昇しました。ところが、問題は科学が「Value free」という棲み分けの姿勢を踏襲したことです。後に現れる毒ガス、枯葉剤はては原爆といった大量破壊兵器の発明はこの姿勢に由来する、と私は信じて疑いません。

「自然との離婚」すなわち自然の客体化という大事件が引き起こしたもう一つのことは、人間の価値が「存在to be」から「所有to have」にシフトしたことです。持つとは自己の外にあるものを自己のものにすることです。お金を持つ、土地を持つ、権力を持つ、すべて自己の外のものだからこそ持つのです。人間はその人格ではなくその持ち物によって評価されるようになりました。所有の欲望には際限がありません。持つものには更なる所有の欲望が生まれます。覇権主義と植民地主義は所有の文明の最たるものでした。

しかし哲学者ガブリエル・マルセルがいみじくも指摘したように、「存在Etreと所有Avoirは反比例の関係にある」のです。「所有が増えるほど存在は減少する」。
自然との離婚により、「人間はその存在の半分を失った」(オーギュスタン・ベルク2011)のでした。その空白感=精神の砂漠化を埋めるものが所有であったのです。
20世紀、われわれは所有の文明による大戦の悲惨な結末を経験しました。それなのに人間は、市場原理主義による極大の所有を求める姿勢を変えていません。

最近の新型コロナウイルスの襲来は、冒頭に引いたミシェル・セールの言葉を想いださせるものです。極大を求めるものは極小のものによる復讐を受ける。われわれは、コロナ禍の苦しみの中で、それを文明転換の天機と捉えるべきです。
人類史のたった2万分の1というこの一瞬の時間帯に起こった「自然との離婚」による人間の全体性の消失こそが異常事態であったのです。

いまわれわれは、ピュシス、生成する自然の主人でも所有者でもなく、その一員であることを再認識し、「所有の文明」から、人間本来の「存在の文明」へとグランド・リセットを行う機会を天から与えられているのではないでしょうか。

 終わりに中村桂子さんの生命誌の扇の図をご覧ください。

s220411_006.jpg

38億年のいのちの広がりです。人間は自然の外にいません。すべての生物の中に居ます。すべての生物が私たちです。「私は私たちの中に居る」のです。

 あのエデンの園には、「知恵の樹」だけではなく、もう一つ大切な樹が植えてありました。「生命の樹」です。人類は今、この忘れられた樹の方を振り返り、歩み寄らねばならない。この振り返りを私は「文明のグランド・リセット」と呼びたいのです。

                     ありがとうございました。

関連記事