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「日本の賃金はなぜ上がらないか」(視点・論点)

労働政策研究・研修機構 理事長 樋口 美雄

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1.賃金に対する人々の関心の高まり

日本の賃金は低く、しかも、近年、ほとんど伸びてないといわれます。
経済協力開発機構(OECD)のデータにより、各国の1人あたり平均雇用者報酬を購買力平価で米ドルに換算してみますと、2020年現在日本の賃金はアメリカの半分強、ドイツの7割強に過ぎません。しかも20年前に比べ、アメリカやドイツでは2割前後伸びているのに対し、日本ではほとんど伸びていません。

2.政府の対策

こうした状況で、今年の春闘はどうなるでしょうか。
すでに連合と経団連のトップが労使フォーラムに出席し、春闘はキックオフされました。
多くの企業で業績が改善し、人手不足や消費者物価上昇の状況を反映して、今年の春闘ではどこまで賃金が上がるのか、注目されています。
従来、日本では、企業ごとに労使で話し合い、賃金は決定され、政府がこれに直接関与することはありませんでした。しかし近年、賃金が上昇せず、マクロ的にも家計の所得が増えないと、総需要の半分以上を占める個人消費は増えず、デフレ・スパイラルから脱却することはできないとして、政府も民間企業の賃金決定に強い関心を示すようになりました。例えば安倍政権下でも、総理自ら経営者に賃上げを要請するなど、いわゆる官製春闘と呼ばれることもありました。
現岸田内閣でも、介護職員や保育士・看護師等の賃上げの決定に加え、「賃上げ促進税制」を拡充し、「政府調達での優遇」の仕組みを導入するなど、全面的に賃上げを後押ししようとしています。

3.賃金の役割

労働者にとって、賃金は消費や貯蓄の源泉である一方、企業にとっては費用を決め、競争力を左右する重要な要素です。さらに賃金は労働需給や労働資源の配分を決める重要な価格シグナルの役割を演じます。生産性の高い、利益の上がっている企業では、高い賃金を払うことで労働者をひきつけ、雇用を増やすことができます。このように労働市場で企業間の労働力獲得競争を通じ、労働資源の最適配分が可能になるはずです。
はたして日本の労働市場でこうしたことは起こっているのでしょうか。

4.企業の賃金改定の決定に当たり重視した要素の推移

すでに述べたように、日本では1人当たりの年間平均給与額は、30年近くほとんど上昇していません。しかし平均給与額は、労働者全体の平均額を見たもので、賃金の低いパートタイム労働者が増えれば平均額は下がります。事実、わが国では、近年、主婦パートの増加に加え、定年後の嘱託労働者や学生アルバイトなどが増えました。わが国では少子高齢化のもと労働力不足が起こっても、賃金をさほど上げなくてもパートタイム労働者を確保することができました。
また一般労働者にしても、近年、労働時間が短縮され、コロナが始まる前の5年間で所定内労働時間は5%、残業時間は4%減りました。これも年間平均給与を抑制することになりますし、賃金のみならず、働き方改革などの要求も増え、春闘時の議論も多様化してきました。
日本では労働生産性や企業業績が伸びないことが賃金の低迷に影響しているのでしょうか。

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こちらの図には、日本・アメリカ・EU圏の労働生産性と実質賃金の伸びを示しています。確かに日本の労働生産性はアメリカに比べ伸びておりません。賃上げをするには、人に対する投資を増やし、生産性を引き上げる必要があります。ただ各国の実質賃金を労働生産性と比較すると、アメリカやEU圏では両者はほぼ同じように伸びているのに対し、日本では賃金のほうが生産性の伸びを大きく下回っています。生産性の伸びは賃上げの前提条件ですが、この図を見る限り、それだけで賃金が十分伸びるとは言えません。
日本で賃金が伸びない要因は、ほかにもありそうです。
企業は春闘において、何を重視して賃金改定をしているのでしょうか。今も昔も自社の業績を重視して賃金を決めていることに変わりはありません。

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厚労省の調査によりますと、1990年以前は6~7割の企業が企業業績を最も重視したとしてきましたが、現在でも5割前後の企業がこれを最も重視しています。これに対し、「周囲の企業の賃上げ」を挙げる企業は減っています。かつては同一産業や同一地域の同格企業、系列企業など「世間相場」を上げる企業は3割を上回っていましたが、最近では1割以下に減っています。それだけ労働市場における企業間の波及効果は弱まっているといえます。また「労働力の確保・定着」を挙げる企業も減っています。多くの企業が、少子高齢化のもと、人手不足を訴えているにもかかわらず、「労働力の確保・定着」を挙げる企業が減っているということは、特定の分野を除いて、労働市場における企業間の壁は厚く、人材の確保に賃金メカニズムが働かないことを示しています。

5.賃金決定の分権化(個別化)と労使のバーゲニングパワー;
分権化した賃金決定のメリット・デメリット

わが国では、それぞれの企業の労使交渉で賃金は決められる個別分権的な賃金決定方式になっています。ヨーロッパのように職種ごとに国や地域レベルで決まる中央集権的な賃金決定になっているわけではありません。その結果、個々の企業の業績に応じて、賃金が柔軟性を持っています。これに加え、ボーナスの年収に占める割合が高く、業績に応じ柔軟に変えられ、業績が悪化しても給与を下げることで、人件費を抑制し、雇用に手を付けなくて済みます。
しかし、その一方、個別分権的な賃金決定では、企業を越えた労働組合の連帯は弱く、交渉上の地歩は弱く、ときには労働組合までもが企業間の価格競争に巻き込まれます。雇用を守ろうとすれば、賃下げを余儀なくされます。
かつて日本では、春闘を通じて多数の企業が一斉に賃金交渉を行うことで、リーダー企業の賃上げが他企業に波及し、個別労組の弱さが補われてきました。しかし、企業間の価格競争が激しさを増し、世間相場や人材確保のための賃上げよりも、人件費の引下げに力が注がれるようになりました。
リーマンショック以降、たとえ企業収益が増えても、企業はリスクに対する備えを重視して、内部留保を増やし、リーダー企業までが固定費化する基本給の引上げを回避してきました。

6.政労使会議開催の提言

賃金が生産性よりも低く抑制されている要因をひとつに特定化することは難しいですが、その一因として、すでに述べてきましたように、個別分散的な賃金決定のもと、企業間の価格競争が激しく、賃下げ競争が行われていることを挙げることができます。
労働者の交渉上の地歩の弱さを補うには、政府による賃上げの支援策が必要です。これらについて政労使の三者で議論し、交渉していく会議が求められるのではないでしょうか。
今までにも生産性向上に対する政策支援と最低賃金の引上げを同時に実施することを決めた「成長力底上げ戦略会議」が開かれたこともあります。会議では、政府支援の有効性と賃上げの実施について、エビデンスに基づいて検証していく必要があります。
今春闘は、コロナ禍において企業間・業種間で業績に大きな格差が生まれています。利益を上げている企業がどこまで賃上げを実現していくか、そしてそれがどこまで他の企業に波及していくか、注目されます。

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