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「ソ連崩壊から30年」(視点・論点)

神奈川大学 招聘教授 下斗米 伸夫 

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 1991年にソ連邦が崩壊してこの12月末で30年がたちます。ゴルバチョフ共産党書記長がペレストロイカという改革を始めて6年、核を持った社会主義超大国が地図上からなくなるという衝撃的事件でした。
 それにしても人口三億近い国ソ連が消え、かわりにエリツィン大統領が率いるロシア連邦など15の国民国家が誕生するようなことがなぜ起こったのでしょうか。そしてそのことは30年後の現代にとってどういう意味を持つのでしょうか。

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1985年ゴルバチョフ氏はソ連の内外での行き詰まりを解決するため改革をはじめました。しかし危機の根は彼が考えた以上に深く、大胆な政治改革に踏み出します。
新思考外交のもと、INF条約が締結、89年11月にはベルリンの壁が壊れ、ドイツが統一するなど冷戦を終わらせました。
なかでも政治改革の結果、それまで名ばかりの連邦国家だったソ連において領土でも人口でも最大のロシアに、同世代の政治家エリツィンが改革の遅れを批判し台頭しました。

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彼はロシア主権の優位を主張して、91年6月にはロシアの民選大統領となりました。このためモスクワにはソ連とロシアを代表する二人の大統領が現れるという異常事態がうまれます。
ゴルバチョフはより緩やかな新連邦条約を考えましたが、側近のソ連維持派は8月の新条約締結の直前にクーデターを謀ります。この企てはエリツィン・ロシアなど共和国や市民の抵抗で3日天下に終わり、実権はこれに体を張って抵抗したエリツィンとロシアなど共和国側にうつりました。
これを第一幕とすれば、このことで反モスクワ感情をたかめていたバルト三国やとりわけ第二の共和国ウクライナなど独立の動きが表面化しました。なかでもロシア国家の宗教的起源とされるウクライナの議会が8月24日に独立を宣言し、12月1日にはクラフチューク新大統領が独立の国民投票を成功させます。

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このため8日にはエリツィン大統領らウクライナ、ロシア、そしてベラルーシのスラブ三国首脳はベロベーシで会合、ゴルバチョフのソ連抜きでの独立国家共同体形成を宣言します。
欧米各国政府もエリツィンのロシア連邦こそがソ連の後継国家となるとみました。中央アジアの共和国も従いました。
こうして12月23日にクレムリンでゴルバチョフからエリツィンに国家権力を象徴する核のボタンと政治局文書の鍵が渡りました。74年にわたったソ連邦と共産党の時代は91年末に終わりました。
ロシアは良くマトリョーシカという入れ子人形に例えられます。ちょうど300年前にウクライナと一緒にロシア帝国を形成する以前もロシアは正教国家でありました。帝国が形成された後も深層でのこのロシア民族主義、反帝国の民族的潮流が根強くのこっておりました。
実際ウラルで生まれたエリツィン自身、このような潮流の出身で、エリツィン側近もこのようなロシア民族主義の末裔でした。
彼らは豊富なエネルギーなど燃料資源をつかって価格自由化、民営化などロシア一国での改革をやりたいという理由もありました。こうしてソ連邦との決別は意外にスムースでした。
もっともエリツィンのもと若手市場改革派がIMFなどと組んで行った市場改革、特に価格自由化はインフレを起こし物価は26倍となります。拙速に行われた民営化では、旧共産党エリートとオリガルフといわれる新興成金が国有財産を所有することとなりました。
なかでもソ連崩壊後最大の外交問題が起こったのは、独立したウクライナとの関係でした。

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ウクライナは一種の複合国家でして、西側はカトリック系ポーランドとの関係が深く、ウクライナ語が国語となるのですが、東側はロシア語を使い正教的で、つまりロシアとの結びつきが深かったのです。
この問題と関係したのが、90年代半ばに本格化したNATO(北大西洋条約機構)の東方拡大でした。ドイツ統一時には軍事同盟不拡大が東西関係の原則でした。しかしロシアになって米国のクリントン民主党政権が、NATO東方拡大をすすめたことが、エリツィンの親欧米路線を痛打します。

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こうしてロシアの親欧米路線は崩れ、かわりに96年にロシア外相になったゴルバチョフ・ブレーンだったプリマコフはインド、中国など全方位外交に転換し、クリミア半島に位置する戦略部隊、黒海艦隊を賃貸と共同管理で決着します。
この間エリツィンの市場改革路線は98年アジア金融危機のあおりを受けて破綻、この危機を救ったのも外相から急遽首相になったプリマコフでした。またNATO拡大がコソボ危機を招いた時、首相プリマコフは訪米を中止したことで、次期大統領候補の呼び声も出てきます。
こうした折、エリツィンがプリマコフに対抗するため登用したのが、元東ドイツ駐在KGBのプーチン現大統領でした。1999年末、病気がちのエリツィンは、プーチンに後事を託しました。チェチェンなどのテロに対抗したプーチンは国家再建と保守主義、そして経済成長を掲げ登場しました。

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プーチンは9月11日の同時多発テロでは米国と協調しましたが、その後、NATO拡大が2007年頃から旧ソ連諸国を対象とするようになると各国で親ロ派と反ロ派とが分裂するようになります。特にジョージアやウクライナをめぐっては米国とロシアとの覇権争いが激化します。
他方、ウクライナとの和解にはますます悪化したまま成功していないのです。
なかでも2014年2月にウクライナの親欧米勢力がマイダン革命をおこしたことは、共同管理していた黒海艦隊の拠点クリミア半島がNATOの傘下に入ることだとみたプーチン大統領は3月にクリミアを併合し、このことでロシアはG8から追放され欧米との関係は史上最悪の立場になります。
ロシアとウクライナとの関係は歴史的な兄弟関係なのか、それとも全く別の国家なのか。ウラジーミル・プ-チン大統領は今年7月の論文でロシアとウクライナとは同じ民族であるといって論議を呼んだのですが、たしかに複合国家ウクライナとの関係は東ウクライナとはそういう見方も成り立ちますが、しかし西ウクライナとの関係はそうではありません。

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崩壊30年から改めて旧ソ連諸国の地図を見てみると、ヨーロッパではバルト三国がNATOに加盟、ウクライナは安保では西側より、ベラルーシはロシアよりで不安定です。
ウクライナ危機を解決するための、欧州主導によるミンスク合意は、当のウクライナ政府の反対で成功しませんでした。
こうして米ロ関係が冷戦後最悪となりましたが、それはゴルバチョフ期に改善した核管理など安全保障環境を悪化しました。

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世界の核物理学者は半世紀以上にわたって核戦争が始まるまでの時間を毎年公表しています。ソ連崩壊後に17分もあった余裕はなくなり、最近では核戦争まで100秒に迫っています。各自が自国優先を追求した結果、核戦争で共倒れになるという典型的なジレンマです。
今年米国バイデン政権が発足したことでそれまでは対ロ和解を主張したゼレンスキー政権を刺激し反ロシアに転換、これがプーチン政権の軍事演習を促すなど対立は深刻化しました。

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さすがに6月ジュネーブで米ロ首脳会談が開かれるなど、米ロは戦略的安定やサイバー問題などを話し合い、この12月7日にもロシアとウクライナの紛争をめぐって、両大統領のビデオ対話が始まっています。
世界大でのインド・太平洋へのパワー・シフトが生じ、米中対立が激化している今日、真剣な安全保障交渉が求められます。欧州が進めたミンスク合意の履行など兄弟国間の和解のため、NATO、米ロそしてEUを含めた戦略対話が必要で、来年はその成果を期待したいものです。

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