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「コロナ禍で生まれた言葉を考える」(視点・論点)

東京大学 准教授 古田 徹也

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 新型コロナウイルス感染症が世界規模で流行し、私たちの暮らしに大きな影響を与えています。そのなかで、見慣れない言葉や聞き慣れない言葉が次々に登場し、社会にあふれるようになりました。「クラスター」、「ソーシャルディスタンス」、「ロックダウン」、「濃厚接触」といった言葉たちです。
 今日は、この現状の背景と問題点を確認しながら、コロナ禍における新しい言葉の氾濫に対して私たちの社会はこれからどう向き合えばよいのか、どのようなことに注意すべきなのか、ということについてお話ししたいと思います。

 先日に、文化庁による国語に関する世論調査の結果が発表されました。そこでは、今回のコロナ禍において社会に浸透した言葉もいろいろと取り上げられています。

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ここでは、「ソーシャルディスタンス」という言葉についての、年齢別の調査結果を見てみましょう。一般的に、年齢が上がるにつれて新語に対して抵抗感を覚えたり、分かりにくいと感じたりする割合が大きくなる傾向がありますが、その傾向はカタカナ語に顕著です。このグラフを見ると、「ソーシャルディスタンス」という言葉について、16歳から19歳までの方のおよそ8割が、「この言葉をそのまま使うのがいい」と回答しています。それとは対照的に、70歳以上で同じ回答をした方は3割強に留まっています。
逆に、「この言葉を使うなら、説明を付けたほうがいい」と回答した方は、この年代で4割を超えるほか、2割以上の方が、「この言葉は使わないで、ほかの言い方をしたほうがいい」と回答しています。
 この調査結果にもよく表れているように、特にカタカナ語は、世代間で理解や許容の程度に大きな差が生じがちです。これは、少なくともコロナ禍に関しては深刻な問題だと言えます。なぜなら、この新型コロナウイルス感染症は、年齢が上がるほど重症化率や死亡率が顕著に上昇していくからです。
 ただ、カタカナ語はすべて従来の日本語に言い換えればよいかというと、そう単純な話でもない、というのが重要なポイントです。
 たとえば、「ソーシャルディスタンス」はしばしば「社会的距離」と言い換えられてきましたが、この日本語は、社会において人々の間に存在する精神的な距離感、貧富の差といったものを連想させます。少なくとも、人と人の間の物理的距離を指す言葉としてすぐに理解することはできないでしょう。
このように、「社会的」という言葉など、すでによく馴染んでいる言葉に対して私たちは、特定のイメージをもち、特定の連想を働かせがちです。そのため、言葉の意味を誤解したり混乱したりしてしまうことがありうるわけです。
 その点、見知らぬカタカナ語に対して私たちは特定のイメージをもっていませんから、その種の誤解は避けることができます。また、言葉の目新しさによってインパクトを与え、人々の注目を引くという効果もうかがえます。
 たとえば、「ロックダウン」という言葉について見てみましょう。このカタカナ語はときに、「都市封鎖」という言葉に訳されることもありますが、これは正確な言い換えではありません。
というのも、新型コロナ対策のために世界各国で実施されてきた「ロックダウン」は、都市をまるごと封鎖するというよりも、住民の外出や都市の機能に対する制限を意味する言葉だからです。実際、国や地域によってロックダウンの実施の形態は実にさまざまです。その意味では、英語のlockdownをそのままカタカナに変換した「ロックダウン」の方が、むしろ適切な訳語だと言えるでしょう。
ただ、カタカナ語はそのままでは言葉の意味が想像できませんから、行政やメディアなどがこうした言葉を用いる場合には、繰り返し説明の責任を果たす必要があります。
 ここまで、新しいカタカナ語の導入の短所と長所を確認してきました。
今回のコロナ禍のような未曾有の状況においては、それに対応する新しい言葉がある程度は必要になります。私たちは、その新しい言葉の意味をよく学ぶ必要があります。これは私たちが皆やるべきことです。
ただ、努力にはやはり限界もありますし、特に世代によって、理解や許容の程度にどうしても差が生じます。そのため、行政とマスメディアによる丁寧な説明が欠かせません。説明はくどいほどでもよいと思います。
また同時に、新語が社会に広く行き渡る前に、あるいはその初期段階で、言葉自体の十分な吟味が必要でしょう。
たとえば「ブースター接種」や「ブレイクスルー感染」といった言葉が最近、メディアで躍りました。けれども、本当にこうしたカタカナ語を使う必要があったのでしょうか。特に、高齢者の方々の多くには、こうした言葉は理解のための障壁になってきたはずです。
「ブースター接種」は、最初から「三回目接種」や「追加接種」などと言えばよかったでしょう。
では、いま現在もよく使われている「ブレイクスルー感染」はどうでしょうか。「ワクチン接種後感染」がよいでしょうか、それとも「突破型感染」や「打ち抜き感染」といった直訳調の言葉に言い換えた方がよいでしょうか。それとも、カタカナのままがよいでしょうか。
行政もメディアも、海外で用いられている言葉や専門家の言葉遣いをそのまま垂れ流して反復するだけでは駄目だと思います。有識者の知見や、各世代の市民の反応なども取り入れながら、慎重に、かつ迅速に、よりよい言葉を探して選び取る努力を怠ってはならないでしょう。

 最後に、分かりやすい言葉の落とし穴というものについて考えたいと思います
たとえば、「ステイホーム」という標語は、行政とメディアがともに力を入れて発信した分かりやすいスローガンであり、実際に社会に広く行き渡りました。
ただ、生活のなかで「ステイホーム」を難なく実践し、この言葉に馴染める人もいれば、そうでない人もいます。少なくともこの言葉が、帰るべき家がないとか、家庭内で虐待を受けているとか、長時間の外出が必要な仕事をしているといった、様々な事情をもつ人を考慮しない言葉であることは確かです。「ステイホーム」という掛け声に皆で従おうというプレッシャーが社会で強まれば強まるほど、考慮しなければならないはずの事情が見えづらくなりますし、異論も上げづらくなります。
また、そもそもこの言葉が、多くの高齢層にとっては分かりにくい言葉である、という点も見逃してはならないでしょう。「ステイホーム」もやはりカタカナ語ですから、年齢層が上がるほどこの言葉に疎遠になる傾向があることは間違いありません。
物事の一面を強力に照らし出し、人々の見方をそこに向ける言葉は、スローガンとして効力をもちえますが、代わりに見えなくなるもの、軽視するもの、自ずと抑えつけてしまうものも、不可避的に生じてきます。この点を私たちはよくよく注意しなければなりません。
コロナ禍の状況において、新しい言葉は確かに必要です。ただ、その言葉が社会において世代や職業などの間に分断をもたらし、強化する面があることも否めません。私たちがこの点を強く意識して、そうした負の側面を軽減する努力を続けることが、ぜひとも必要だと思います。

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