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「なぜ坂を上るのか」(視点・論点)

俳優・サイクリスト 猪野 学

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私の趣味はロードバイクに乗る事です。
ロードバイクとは、レースや、長距離走にも使われる、スポーツタイプの自転車です。
重量も軽く、スピードが出せるのが特徴です。しかし私は、ただロードバイクに乗るだけでは「決して満足出来ないのです。」

私はロードバイクで、「坂を上る事」を、こよなく愛しているのです。
私のように、自転車で坂を上る事を、こよなく愛する人達の事を、自転車乗りは敬意を込めて、こう呼びます。
「坂バカ」
私の職業は俳優なので、人はいつからか、私の事を「坂バカ俳優」と呼ぶようになりました。坂の何が楽しいのか? 何故、坂を上るのか?
今日は坂の魅力と、坂から私が学んだ事を、お話ししようと思います。

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私は37歳の時にロードバイクに出会いました。自転車で、イタリアを縦断するという番組がきっかけでした。イタリアはとても坂の多い国です。イタリアの坂を何度も何度も登るうちに、私はすっかり坂の魅力にハマってしまったのです。

坂の魅力とは、一体 何でしょうか?まずひとつは、ロードバイクで坂を上るときの、圧倒的なスピード感です。

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ロードバイクは軽量に設計されているので、信じられない速さで、坂を登る事が出来きます。
ちょっとした坂なら時速20キロから30キロを出せる事が出来ます。
例えば日光にある いろは坂ですと僅か30分程度で登る事が出来るのです。

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いろは坂のような、自然の多い坂でスピードを出しているとマイナスイオンを帯びた綺麗な空気を、全身に浴び続けるので、何とも言えない心地よい爽快感を味わえる事が出来ます。
聞こえるのは、自分の呼吸の音と、鳥の鳴き声だけ。
日々のストレスが解消されて行きます。その内に、頭の中もクリアになり、色々な思考が巡り始めます。過去の自分を振り返ったり、これからの自分を模索したり、時には現状を打破するヒントを得られる事もあります。
坂は日常からかけ離れ、自分をリセット出来る。そんな場所でもあるのです。

しかし、いろは坂のように、心が癒される生易しい坂ばかりではありません。
世の中には登り切ると事も難しい。恐ろしい坂も存在するのです。

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それは日本一の富士山にある、富士アザミラインです。アザミラインは富士山の須走口から5号目まで、標高差1200メートルを登ります。
このアザミライン、その可愛い名前とは裏腹に、日本一 過酷な坂と言われているのです。
それはアザミラインには、馬もひっくり返る馬返しという、勾配22%の激坂があるからです。

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勾配が22%を超えると、もはや壁です。壁のような坂を登り続けますと、脚に乳酸が溜まりだし、ペダルを踏めなくなって来ます。たまらず地面に脚を付きたくなります。

しかし坂で脚を付く事は坂バカにとって最大の屈辱です。脚を付かずにジグザグに蛇行しながら上ります。標高も高くなり、酸素が薄くなって呼吸も苦しくなって来ます。
苦しくて、苦しくて、限界が近づいて来ます。
しかし限界を迎えると、不思議な事に、苦しさが、楽しくなって来るのです。そして更に限界を越えると今度は、気持ち良くなってくるのです。この「特殊な気持ち良さ」が病みつきになり、坂バカになる人は少なくありません。

坂には、苦しい事も 楽しさに変えるそんな不思議な魅力もあるのです。
己を追い込み、アザミラインを登頂出来た時は、自分が少しだけ強くなれたような、特別な達成感を味わう事が出来るのです。

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そんな恐ろしいアザミラインでは年に一度、坂でスピードを競い合う、ヒルクライムというレースが開かれます。

私は1人で登る事に飽き足らず、坂で人と競いたいと思うようになりました。
私はこれまで過酷な坂を何度も登って来たので、脚には自信がありました。
しかし初めて出場したレースでは、ほぼ最下位と完敗してしまったのです。
世の中には、こんなにも速く坂を登る人達が存在するのか。
私もヒルクライムのトップ選手になりたい!私は益々、坂の奥深さにハマって行きました。

ヒルクライムで好成績を残すには、日々のトレーニングが必要となります。

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私は、自宅のベランダにローラー台というトレーニングマシンを設置し、脚力と心肺機能を毎日鍛え続けました。
ヒルクライムのトレーニングは、持久力を鍛えるので、とても地味なものです。
長いレースですと90分になりますので、ベランダで90分ペダルを回し続けます。

しかしこの地味なトレーニングを続けていると、どんどん体重が減って行き、体脂肪率が5%なるまで絞れて行きました。
年齢40代にして自分史上最高に身体が絞れたのです。
私はこれまでジョギングや水泳とさまざまなスポーツをやって来ましたが、自転車競技ほど痩せるスポーツはありません。

自転車は本当に身体に良い乗り物です。
身体が軽くなった事で、苦しかったアザミラインの馬返しも難なく登れるようになりました。

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そして岩手県で開催された夏油ヒルクライムでは、自己最高の7位に入る好成績を残せました。
台湾で開催された世界一過酷と言われる台湾KOMというレースでは、坂を100キロ 5時間かけて登り続け、見事に21位で完走し、世界の坂バカの仲間入りを果たしました。

努力した結果がすぐに反映される。それも坂の魅力です。
レースに出る事で、私にとって坂は自分の成長を確認出来る、自己実現の場所となりました。

そしてもう一つ、坂の大きな魅力。
それは人間のさまざまな生きざまが投影されていることです。
坂バカ俳優として、テレビ番組に出演を重ねるようになり、全国のさまざまな坂バカ達との「出会いがありました。」

運動が苦手だったサラリーマンは、肥満により脂肪肝になり、このままでは死んでしまうと医師に宣告されてしまいました。
彼は通勤を自転車に変え、毎日坂を登り続ける事で体脂肪率が6%になるまで痩せ、健康な体を取り戻しました。
彼はこう言っていました。「坂に運動神経は関係ない、私は坂によって生かされている」と。
自分の居場所が分からないと悩む16歳の少年は、自宅の前にある坂を、叫びながら登る事に喜びを見出しました。
少年は私に「坂は自分の全てを曝け出せる唯一の場所だと、笑顔で語りました。

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宮崎県に住む一人暮らしの80歳の老人は、遠く離れて暮らす息子との共通の趣味がヒルクライムでした。
彼は息子に、自分はまだまだ元気だとアピールする為に、毎日坂を上り続け、毎日息子に健康をアピールし続けました。
すると気づかないうちに、ひと月に50000メートル坂を上り、なんと!世界一の記録を打ち立ててしまいました。
親子の絆がこれだけの高見へと押し上げたのです。

このように、坂には、それぞれの人生があるのです。
坂は人生に立ちはだかる 試練や、悩みや 克服すべき壁そのものなのです。
私は最近、持病の腰痛や、加齢からかヒルクライムで思うような成績が残せなくなりました。
しかし私は坂を登り続けます。まだ坂から学ぶ事があると思うからです。

人生は、報われない事がほとんどです。
しかし、続ける事で、見えてくる世界が必ずあると、坂は私に教えてくれているような気がします。
ペダルをこぎ続けてさえいれば、必ず頂上にたどり着けるからです。

いつか見る絶景の為に、私は今日もペダルを漕ぎ続けます。
私はまだまだ坂の途中だからです。

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