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「渋沢栄一が目指した福祉」(視点・論点)

学校法人「日本リハビリテーション学舎」 理事長 宮武 剛  

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お金を儲けるのは、ずいぶん難しいことだ、と思います。では、逆に、お金の使い方はやさしいのでしょうか?有意義な使い方や、社会に役立つ使い方になると、お金儲けより、むしろ難しいかも知れません。
お金の儲け方でも、お金の使い方においても達人であった代表は、新しい1万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一さんだった、と思います。
どんなおカネの使い方をされたのか。それをたどると、「日本の資本主義の父」と呼ばれる大人物の、もうひとつの顔が浮かんできます。

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渋沢は江戸の末期、いまの埼玉県深谷市で生まれました。染め物に使う藍玉を取引する大きな農家で、若いころからビジネスの才能を磨きました。幕末の動乱期を迎え、渋沢は徳川一族に仕えるサムライになります。最後の将軍・徳川慶喜の弟・昭武に付き添ってヨーロッパに2年間滞在します。帰国した後は一転して明治政府に仕えます。
この波乱の人生は、大河ドラマ「晴天を衝く」でご覧になっている方々が多いと思います。

渋沢は大蔵省を早々に退官し、第一国立銀行を興します。
その翌年、37歳で「東京養育院」の運営を引き受けます。親のない子や独り暮らしの老人など生活に苦しむ人々を預かる東京で唯一の大きな公的な施設でした。
ところが、東京議会の有力者は「税金で困窮者を養うのは、国民を怠け者にするだけだ」と主張します。渋沢は「病気や災害や失業で貧しくなる人々は多い。彼らを救うのは人の道ではないか、政治の役割でないか」と反論します。
しかし、補助金は一時打ち切られ、養育院は破産しそうになります。その時、渋沢は、フランスで見聞した慈善バザーを思い出します。友人や知人らに品物を持ち寄ってもらい、華やかな舞踏会で有名な「鹿鳴館」で即売会を開きました。
日本初のバザーでした。それぞれの所得に応じ寄付をして、社会に貢献する欧米では「フィランソロピー」と呼ばれる活動です。渋沢は、その後も、日本赤十字社の支援、日本女子大学の創設など医療や教育の分野でも資金集めに奔走し、日本の「フィランソロピーの開拓者」になっていきます。

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ところで、渋沢は、91歳で亡くなるまで半世紀以上も東京養育院の院長を務めました。いま東京都板橋区にある「東京都健康長寿医療センター」は、この養育院の歴史を受け継ぐ施設です。

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構内には渋沢の銅像があって、生涯をかけて信念を貫く生き方を象徴しています。

渋沢は500社以上の企業を起こし、育てます。その資本主義が発展するに連れ、豊かな人々と貧しい人々との格差が拡大し、深刻な社会問題になります。日露戦争が終わって3年後の1908年、「中央慈善協会」が発足します。渋沢は初代会長に就任し、こう挨拶しています。
「文明が進み、富が増すほど、貧富の差がひどくなる」「東京養育院は入所者5,6百人だったが、今日では1600人を超えた」と現状を報告しました。そのうえで「道理正しく、組織的にも経済的にも、慈善を進歩させていきたい」「もちろん政治と力を合わせなければ十分な効果は得られない」と、現代にも通じる福祉活動の注意点を挙げています。
この協会は、名前や組織を変えながら、時代を超えて引き継がれ、現在の「全国社会福祉協議会」に至ります。みなさんの地域にある社会福祉協議会の中央組織は渋沢が「生みの親」にあたります。

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また、協会の機関誌として「慈善」を創刊します。これが、創刊号の復刻版です。欧米における貧困対策や社会事業も詳しく紹介されています。

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この機関誌も延々と発行され、現在は「月刊福祉」という専門誌になっています。これは2009年発行の100周年記念号です。
実は、私は編集委員長として、100周年記念号の編集に関わりました。その時、福祉に尽した渋沢の足跡を改めて調べ、感銘したことを思い出します。渋沢の手がけた社会事業の多くは、現代にも生き続けていることが大きな特徴だ、と思います。

最後に報告する渋沢の業績も、現在の生活保護法の基礎を作った活動でした。

大正から昭和へ、時代は暗転します。第1次世界大戦が終わって世界各国は深刻な不況に陥ります。日本では、関東大震災に直撃され、次いで銀行まで破綻する金融恐慌が起きます。庶民の暮らしはどん底へ突き落とされました。
ところが、貧困者を救う仕組みは、明治維新の直後に慌てて作った「恤救(じゅっきゅう)規則」だけしかありません。恤救、つまり「あわれみ救う」という趣旨で、飢え死しそうな人々だけをお情けで救う程度でした。
さすがに近代的な法律が必要だという世論が高まり、世界恐慌のさなかの1929年、昭和4年、「救護法」がやっと成立しました。貧窮者を救うのは国家の義務であることを初めて認めた法律でした。
しかし、政府は軍事費に予算の大半を使い、貧困者の生活費に充てる予算を確保できません。法律の実施は先延ばしされました。
渋沢は、すでに90歳、しかも病気で寝込んでいましたが、医師の制止を振り切って、大蔵大臣初め政府の幹部に会って、予算の確保を迫りました。
渋沢を指導者と仰ぐ全国の方面委員たちも立ち上がりました。方面委員というのは現在の民生委員にあたる地域の相談役、世話役たちです。その日の食事さえない庶民のどん底生活を肌で実感していました。
しかし、時の大蔵大臣は「ない袖は振れない」などと冷たく拒否し、埼玉県代表の方面委員は怒りの余り卒倒し、そのまま死亡したほどでした。

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ついに方面委員の代表千数百人は、天皇への上奏文をまとめます。「陛下の赤子20万、今正に飢餓線上を彷徨するを見るに忍びず」。国民20万人もが餓死寸前だ、もう放置はできない、という叫びです。
この直訴が天皇へ届いたかどうか、不明ですが、天皇の怒りを恐れ、政府も国会議員も慌てました。
競馬の利益の一部を回す苦肉の策で予算を付け、3年遅れで救護法はやっと実施されました。ちょうど第一回の日本ダービーの開催と重なります。その売り上げも救済に使われたわけです。
恤救規則による救済人員は多くて年間3万人程度でしたが、救護法では当初から約16万人を救済しました。ただし、生存可能なギリギリの生活費しか与えない内容でした。
それでも第二次世界大戦後に、現在の生活保護法が制定されるまで、この救護法が困窮者を救うわが国では唯一の制度でした。

渋沢は、救護法が実施される2か月前、91歳で亡くなりました。

日本の資本主義の発展に尽くしながら、その弊害を防ぎ、その弱点を補う努力をひたすら続けた人格者でした。
現代の日本でも所得の格差は広がる一方です。経済の成長と分配の在り方が社会の重い課題になっています。渋沢栄一さんなら、いったい、どう対処するのでしょうか?
新しい1万円札を使うたびに、そう問いかけたくなりそうです。
とりわけ政治家や経済人は、渋沢のお金の使い方から学ぶべきだと思います。

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