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「北海道・北東北の縄文遺跡群 世界遺産登録とその価値」(視点・論点)

東北芸術工科大学 准教授 青野 友哉

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 先日、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関であるイコモス=国際記念物遺跡会議は、北海道・北東北の縄文遺跡群を世界遺産とすることが適当であると勧告しました。七月に行われる世界遺産委員会で正式に決定される見通しです。
きょうは日本の縄文遺跡群の世界的な価値についてお話しします。

 縄文時代は今から約一万五千から二千四百年前までの長期間続いたとされています。この時代に日本列島に生きた縄文人は竪穴住居に住み、土器や弓矢を使い、ストーンサークルなどで祭祀を行っていました。

 日本政府と関係自治体がユネスコに主張した縄文遺跡群の価値は「一万年以上にわたり狩猟・漁労・採集を基本として定住を実現した人々の生活と精神文化を今に伝える文化遺産である」、としています。
ここで重要なのが狩猟採集文化でありながら定住をしていたということです。
世界史の教科書では「人類は獲物を追って移動する生活から、農耕を行い定住する生活に変わった」と説明されます。ユーラシア大陸の各地では新石器時代になると農耕の開始と定住化がセットで進みました。しかし、日本列島は地理的条件から農耕社会へは移行せずに狩猟採集を行いつつ定住するという世界的に稀な歴史をたどったのです。

 近年、世界遺産登録された狩猟採集民の文化的景観としてデンマークのアーシヴィスイト=ニピサットが挙げられますが、イヌイットの文化は継続期間が約六千二百年間と縄文時代より短い点と、夏と冬とで居住地を変える半定住である点が縄文遺跡群と異なります。

 考古学者の小林達雄氏は、定住化が文化の成熟に貢献したといいます。定住により時間的余裕が生まれ、知性の活発化が起こります。また、移動する必要がなくなった老人が知識を孫子(まごこ)に伝達し、社会の知が集積されたといいます。

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しかも、縄文文化は半定住ではなく、四季を通じた定住であることが北海道北黄金貝塚などの貝塚に積み重なった貝や魚の種類からわかっています。
つまり、農耕社会の知が集積した文化は世界各地に見られるのに対して、通年定住型の狩猟採集民の生活様式と、長期間にわたり成熟させた精神世界を示す遺跡は世界的に稀であり、そこに価値があるということです。

 もう一つ重要な点は、居住域と墓域の位置関係の変化や、集落間の共同祭祀場の登場など、自然環境や社会環境の変化に対応した集落構造の変遷がわかることです。

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初期の定住化の様相は不明ですが、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡では、北東アジアで最古級の土器が出土しました。土器は持ち運びに適さない道具ですので、そこが居住地であることを示しています。

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約九千年前には北海道垣ノ島(かきのしま)遺跡のように居住域と墓域からなる定住集落が出現します。

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約五千年前には青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡の巨大な六本柱や岩手県御所野(ごしょの)遺跡のストーンサークルのように集落内に多様な祭祀場が出現します。

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その後、約四千年前に集落は小規模化して分散する一方で、秋田県伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡や北海道鷲ノ木(わしのき)遺跡のように、複数集落の共同の墓地と祭祀場が作られます。つまり、分散した集落を精神的に結びつける社会的な文化装置を生み出したのです。
このように縄文遺跡群は、狩猟採集社会が長期間継続することで培った精神世界の発達と、それに伴った集落構造の変遷を示す点に価値があるのです。

 ところで、私たちは縄文文化の内容をどの程度理解しているでしょうか。縄文文化は日本の基層文化と言われますが、弥生時代以降の農耕文化の上に生きる私たちには、あまりに異質で理解しがたい部分があることは事実です。私たちの先祖の歴史・文化であっても、農耕文化と狩猟採集文化では思考形態が異なるため、縄文人が残したものをすぐに理解するのは難しいのです。
 まずは、現代的な価値観から離れるとともに、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだ狩猟採集民の考え方を理解する必要があります。

 では、縄文人の思考形態と文化の特質とはどのようなものでしょうか?
狩猟採集民である縄文人は、海や山などあらゆる土地の自然資源を利用する知識と技術を持ち、四季に応じた生活サイクルで定住していました。
しかし、狩猟や漁労に使う弓矢や釣針といった道具は一万年間を通して大きな技術的変化はありません。機能的には既に完成された形態で現れ、のちに装飾が加わる場合がほとんどです。縄文土器が煮炊きには不必要な突起や模様がつく点からも理解していただけるでしょう。
 縄文文化の特質は、日々の暮らしの基盤が祭祀・儀礼からなり、人や社会が持つエネルギーは極力内向きに、つまり精神生活の充実に使われる点です。

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貝塚からは、石で囲まれたシカの頭骨や人の墓が見つかり、貝殻が丁寧に重ね置かれた例もあります。毎日、動植物の命を糧とした縄文人にとって、貝塚はすべての生き物の墓地であり、日々の祭祀場でした。
毎日使用する住居の囲炉裏の形や土器の模様にも宗教的観念が反映されており、それらを作る際に意味が受け継がれます。

 祭祀・儀礼とは人々の共通の思想の現れであるとともに、集団や個人の行動を縛る機能も持ちます。縄文人は巧みにこれを利用し、様々なタブーを設定することで乱獲防止を促し、共通する理念を祭祀・儀礼の場で確認しあったのでしょう。これは土偶や石棒といった非日常の祭祀道具の多さはもとより、土器やすり石など日常的に使う道具にも宗教的観念が見られることから言えるのです。

 長い縄文時代には自然環境の変化や集団関係の悪化があり、
それへの対処も祭祀場の造営といった精神生活の充実に求めています。複数の死者を集めた合葬墓や再葬墓の造営は、人々の共通の墓というモニュメントを作ることで複雑化した社会的関係の解消を意図したものです。
個人・社会双方のレヴェルで「精神生活の充実」を掲げた点が、狩猟採集文化が一万年間継続して到達した成熟の姿と言えます。

 最後に縄文文化の重要性について特筆すべきなのは、多様な地域文化の存在です。南北三千㎞におよぶ日本列島は気候や地理的環境、生態系まで様々なため、土地に根ざした独自の文化が生まれました。
 考古学において土器文化圏と呼ばれる地域的なまとまりは、それぞれがユニークな存在です。

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火焔土器が使われた新潟は翡翠(ひすい)の原産地であり、また「縄文のビーナス」と呼ばれる優美な土偶が生まれた中部高地は黒曜石の原産地でもあったことから、縄文時代には大きな求心力を持つ地域でした。他にも大量の耳飾りや巨大な石棒を作る地域もあれば、南方の島しょ地域の縄文文化もありました。
各地の地域文化は独自性を保ちつつも、モノや情報の流通で互いに関連して列島全体の縄文文化を形成した点は見逃せません。

 北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録は、世界中の多様な文化を認め合うという点において現代的な意義を持ちます。今後は縄文文化内の多様な地域文化の存在と、ネットワーク化されていた縄文世界の実像を国内外に発信する取り組みも重要になるでしょう。

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