NHK 解説委員室

解説アーカイブス これまでの解説記事

「現代と冒険」(視点・論点)

探検家 作家 角幡 唯介

s200819_00.jpg

 今の時代、冒険をすることが段々、難しくなってきたように感じられます。私の探検記の感想のなかには、今時こんな冒険をする人がいるとは、と驚く人がいますが、この「今時」というのはどういう意味なのでしょう。冒険とは時代の条件に制約されるものなのでしょうか。

 現代という時代と冒険との関係について考えるために、まず冒険の定義について考えてみましょう。

 かつてジャーナリストの本多勝一氏は次の二つの条件を満たせば、その行動は冒険だと言えると考えました。一つには危険性、もう一つが主体性です。
 危険性とは文字通り、生命が脅かされるという意味です。ジェットコースターに乗ればそれなりにスリルは味わえますが、裏でしっかりと安全は確保されているので冒険ではない。また、主体性とは自らの意志によって行動を選択することです。戦争が発生して兵士として戦場に送られても、自分の意志ではないのでこれも冒険ではないのです。

 本多氏のこの定義はかなり普遍性が高いように思えますが、今の時代にもまだこれが完全にあてはまるのかと言えば、そこには疑問も感じます。
 たとえば本多氏の時代には考えられなかった状況として、ヒマラヤ登山の商業ツアー化があります。今のエベレスト登山では登山者が経験豊富なガイドに料金を支払って山頂まで引率してもらうのが当たり前になっていますが、これを冒険と呼ぶことは可能でしょうか? 登山者は自分の意志で危険な山頂を目指すわけですから、本多氏の二条件はクリアしています。しかし、これを冒険とよぶには決定的な何かが欠けているようにも思えます。

 何が欠けているのか。私は無謀性だと思います。現代のエベレスト登山は戦略が確立され、最も危険な高所順応も含めてかなりの部分がマニュアル化されています。ガイドがお膳立てしてくれるので、登山経験のない素人でも、自分でも頑張れば登れるのではないかと思えるようになりました。つまりエベレストは未知の対象から、時代の常識の枠内に吸収されたのです。
 未知ではなく、既知になった。無謀でなくなるとはそういうことです。
そう考えると冒険には危険性や主体性以前の条件として、未知性というものが必要そうです。私はこの冒険の本質を、社会や時代のシステムの外に飛びだすという意味で「脱システム」とよんでいます。

 脱システムが冒険の本質であることは、神話を見てもわかります。

s200819_014.png

s200819_016.jpg
神話における英雄の物語は必ず守られた領域から、守られていない未知の世界へ旅立ち、勝利を収めて帰還するというパターンを踏んでいますが、このことは人類が根源的に脱システムを冒険の本質ととらえていることの証と言えるでしょう。

 このように冒険を脱システムとしてとらえると、現代において冒険が難しくなってきた理由も見えてきます。
 脱システムの最も典型的なものは地理的な探検です。地図はそもそも、人々がどの場所まで足をはこんだかを示したもので、その時代や社会のシステムがどこまで広がっているかを描くメディアでした。その外側にある未知を目指すのがかつての探検で、脱システムとして非常にわかりやすい活動だったわけです。
 しかし今地球上のすべての表面が地図におおわれ、地図の外側は事実上、存在しません。ですから今の時代に冒険をおこなおうとすれば、地図とは別の観点で脱システムを試みなければならないのですが、それが非常に難しいのです。

 同じことを別の角度から眺めてみましょう。近代登山という言葉に象徴されるように、今の冒険の基本的なフォーマットは近代に出来上がったものです。どこかに到達すること、何かを計画して達成すること。こうした近代的価値観が典型的に表れたのが冒険の世界でした。二十世紀に入ると北極点、南極点、エベレストが制覇され、それ以下の目標地点も次々に到達されて、今ではもはや新たに行くべき場所など見つかりません。選択肢が失われたため、逆に極点やエベレストなど限られたゴールに人々が群がり、単独や無補給、年齢、スピードといった基準で価値を競い合っています。

 こうした現状を見ると現代の冒険はスポーツ化しているといえますが、じつはこれは矛盾した現象でもあります。なぜなら冒険はシステムの外側の無秩序な渾沌を目指すものですが、スポーツは逆に管理された競技場というシステム内部で行われるものだからです。システムの外に行くべき冒険が、今ではスポーツというシステム的なものに吸収されている。どこかに到達することを目指すかぎり、今や冒険はスポーツ化せざるをえないのです。

 では到達することから逃れた、新しい現代的冒険とは何なのか。かつて私は、その実践として極夜の探検をおこないました。

s200819_018.jpg

s200819_019.jpg

冬の極地では数カ月にわたり太陽が昇らない極夜という現象がおきますが、私はその暗黒の世界を八十日間にわたり彷徨いました。われわれの日常生活を成り立たせている太陽の運行こそ最大のシステムだととらえれば、極夜はそのシステムの外側にある完全なる未知の世界となり、北極という場所ではなく極夜という現象が冒険の対象となります。                

 冒険はなぜ難しくなったのか。答えは次のようなものになるでしょう。テクノロジーの発達でシステムが膨張し、その外側に広がる未知の領域が極端に狭くなりました。その結果として行くところがなくなり冒険はスポーツ化した。これは事実でしょう。しかし事の本質は、じつはこうした物理的システムの膨張よりも、むしろ人間の思考回路がそれに適合してしまっていることにあるのではないでしょうか。
 人間の思考回路は時代の常識や枠組みに制約を受けます。冒険がスポーツ化するのは、われわれの考え方そのものが、到達することに価値があるという近代的価値規範にとらわれ、それ以外の選択肢を見つけることができないからです。同じように、日常生活においてもわれわれの思考回路はシステムの制約を受けます。スマホで事前に情報検索することが当たり前になった現代人は、何でもかんでも事前に予期して、未知の要素を排除しておかないと気持ちが落ち着かなくなりました。その結果、現実に起きる物事がすべて事前におこなった予期の確認作業と化しており、目の前の物事や出来事に没入することができなくなっています。

 冒険が困難になった真の要因はここにあるように思われます。テクノロジーの過剰な発展に思考回路が絡めとられ、今、われわれは未来を予期できない状態を極端に避けたがっています。情報に飼い馴らされ、管理されることに慣れきった精神が、冒険を難しくさせているのです。

 システム任せにすれば自分で考える必要はありません。しかしシステムの外に飛びだせば、決まったやり方がないわけですから、冒険者は生きるための行動判断を自分で下さなければなりません。自らの判断の結果として命を持続させることができたとき、生きている喜びを見出すことができる。もし冒険をすることに意味があるとしたら、ここだと思います。
 機械や他者に判断を丸投げしても、そこに生きる喜びはないのではないでしょうか。
 コロナ禍で将来に不安を感じている今こそ、自分で考え、自らの判断で行動を選択することの重要性が増しているように思えるのです。

キーワード

関連記事