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「新型コロナウイルス スペインかぜからの教訓」(視点・論点)

京都大学 准教授 藤原 辰史

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 新型コロナウイルスによる新型肺炎の感染拡大のなか、感染症を扱った歴史書が世界中で続々と版を重ね、読み直されています。歴史の知識が、どうしていまこんなに渇望されているのか。それはおそらく、現在の新型肺炎が、多くの人にとって人生経験の時間の幅だけでは受け止めきれないからではないでしょうか。歴史書は、ちょうど、100年も1000年も長生きする物知りの友人のように、危機に立たされたときに相談に乗ってくれます。

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いま、最も注目されている歴史、それは、百年前に世界中に広まり、4000万人から1億人、つまり、50人に1人から2人くらいの死者をもたらしたスペインかぜです。日本でも約40万人、つまり、125人に1人くらいの人が亡くなりました。当時世界は、第一次世界大戦の5年目に突入、各国とも報道を統制しており、中立国だったスペインの報道が目立ったため、こういう名前が付けられてしまいました。

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 今日は、この世界を震撼せしめたパンデミックについて三つの論点に絞ってお話をしてコロナ後の展望について考えたいと思います。論点とは、一つ目に、その長期化について。二つ目は、社会的に弱い立場にある人たちの犠牲について。三つ目は、この時期の異議申し立てについて、です。
 それではまず、一つ目の長期化についてみてみましょう。
 このインフルエンザは、第一次世界大戦の最終年である1918年から20年にかけて、三回、世界を襲っています。

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図はイギリスの統計ですが、これと同様に欧米では1918年の初夏に第一波、9月末から1月にかけて5ヶ月にわたり第二波、そして、1919年の2月から3月にかけて第三波が襲いました。第二波の死亡が最大であることがお分かりいただけると思います。日本でも同様なことが起こっています。

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速水融(はやみ・あきら)の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)にある横浜市の肺炎死亡者数の変化をみますと、1918年の10月から11月にかけて第一波が、1919年1月から2月まで第二波が、1920年の1月から2月まで第三波が襲いました。場所にもよりますが、第二波、第三波の方が第一波よりも死亡者が多かったことでは日本でも共通していました。
 この波の「はざま」が特に重要です。つまり、比較的動きやすいときに次の感染に備え、とりわけ医療現場の物資の充実と、医療従事者のケアの充実を優先すべきだったことについては、パンデミックの歴史研究者たちが繰り返し指摘していることです。
 第二に、社会的に弱い立場にある人たちと感染の関係です。
 まず兵士です。アメリカの兵営で感染した兵士たちが、輸送船に乗ってヨーロッパ大陸に渡り、感染を広めましたが、密集した船内で食事し会話し眠る兵士たちは、そうではない上官たちよりもリスクが高かったことは言うまでもありません。
 それから炭坑や鉱山の労働者です。ジョン・バリーの『グレート・インフルエンザ』によると、50万人の黒人労働者が死亡したベルギー領コンゴの鉱山群は、閉山に追い込まれ、ペルーの銅山も同様の状態になりました。アメリカの炭坑地帯である人口6000人のペンシルベニア州マイナーズビルでは、200人の子どもが孤児になりました。

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 速水氏も、三菱鉱山で働く労働者の死亡者統計を挙げています。普段でも月平均50人が亡くなっていますが、流行期の1918年の秋にはその6倍以上に跳ね上がっています。「普段から粉塵を吸い、呼吸器を痛めていたから(中略)流行には抵抗力が弱かった」。この業種の死亡率が一番高かったのでは、と速水氏は推測しています。

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 また、速水氏の統計によると、当時、日本の植民地であった朝鮮の死亡率は1000人あたり13.5人、台湾では13.4 人、樺太では35.4人に達していましたが、日本内地では8.1人にとどまっています。台湾島内で内地人の死亡率は1000人あたり9.6人に対し、台湾人は13.6人ですから、やはり、支配者と被支配者ではリスクが異なっていたことがわかります。医療や予防の環境が内地や内地人の方が恵まれていたのでは、と速水氏は推測しています。
 また、アフリカでは、杜撰な植民地統治が被害を広げていきます。リチャード・コリヤーの『インフルエンザ・ウイルス スペインの貴婦人』(中村定訳、清流出版、2005年)によると、イギリスの植民地シエラレオネのフリータウンでは、多数の患者が乗った船が入港したとき、検査せずにそのまま上陸させた結果、感染によって2000人の死者が出ました。スペインとフランスの共同統治であるタンジエでは、病気が蔓延後三週間経ってようやく行政官が動き始めましたが、一番酷かった地域は放置され汚物が積み上がっていました。
 現在でも、アメリカの食肉処理場で労働者が次々に亡くなったり、世界中の貧困層がさらに困窮を深めたりしており、厳しい労働条件・生活条件に晒されている場所での感染拡大が、世界各地で報道されています。何よりもそういったところでこそ、迅速かつ持続的な対策が必要です。
 第三に、当時、相次いで起こった政治の変革や抵抗運動についてです。
 パンデミックが流行している最中であるにもかかわらず、民衆の異議申し立ての力は衰えませんでした。立ち上がった人びとは、大戦中栄養不足で病気にかかりやすい状態でしたが、その危険性よりも、戦争や政治で自分たちの生命を危機に陥れる政府の存在を、より危険視しました。

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 ちょうど感染流行の時期に、ドイツ帝国のホーエンツォレルン家、オーストリア=ハンガリー二重君主国のハプスブルク家が、それぞれ革命や民族運動によって倒れました。1919年3月1日の朝鮮半島での蜂起も、朝鮮で死者が続出した直後でした。

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日本では1918年から20年にかけて、日本列島各地で、米価の高騰で困窮する労働者や生活者の抗議行動が広まりました。これを「米騒動」と呼ぶことは、教科書で習った通りです。もちろん、これらはスペインかぜが唯一の原因だった訳ではありません。経過は複合的なものでした。食料危機による生活の困窮と、インフルエンザ・パンデミックによる生命の危機が、この後の日本、そして世界の政治の変革にどのように影響を与えたのか、今後の研究が待たれます。
 最後に、新型コロナウイルスが終息を迎えたあと、どのようなことが考えられなければならないのか、歴史研究の視点から一点のみ申し上げたいと思います。
 歴史的にみて、多数の人びとが生命の危機にさらされる事件が起こるたびに、危機以前から医療、福祉、食糧がきちんといきわたる仕組みだったのか、災害や経済危機に対応できる政治や社会だったのか反省が迫られますが、時間が立つにつれて関心が薄くなります。今回もまた終息とともに忘れ去られるのでしょうか。スペインかぜも第一次世界大戦という出来事の影で忘却されていきました。
 しかし、今回は全世界的に共通の問題が浮上しました。テレワークができない医療や福祉や保育、あるいは一次産業にたずさわる労働者や外国人労働者がいなければ、テレワークの仕事は成り立たないこと。にもかかわらず、そういったほとんどの労働者にとって、賃金や福利厚生は、働きやすく、暮らしやすいものでは到底なかったことです。今各国でこの点の反省が迫られ、見直しが始まっています。日本もまたこうした議論から逃れることはできません。
 そのためにも、現在の厳しい労働と生活の現場に耳をすまし、しっかり記憶して、コロナ後の社会作りに生かしていかなくてはなりません。
 

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