「『考える力』を育てる『哲学対話』」(視点・論点)
2020年03月31日 (火)
東京大学 教授 梶谷 真司
はじめに
「考える力」を身につけなければならない――ずいぶん前から世の中でそう言われてきました。グローバル化が進む今日、私たちは多様な人たちと関わり、これまで経験したことのない状況に対処しなければなりません。そのさい従来のやり方や既存のモデルでは通用しないことが増えています。そこで教育の分野でもビジネスの分野でも、「自ら考える力」が必要とされているのだと思います。ではいったい「考える力」はどのようにして身につけられるのでしょうか。
今日お話しする「哲学対話」という活動には、その答えのヒントがあるようです。哲学対話は、1960年代にアメリカで始まった「子どものための哲学(Philosophy for Children:P4C)」に由来します。これは難しい哲学者の思想について教えるのではなく、思考力を育てるものであり、そこで「対話」が主な方法として開発されたのです。
私自身2012年にハワイで実際にそれを体験しました。20人ほどの子どもたちが輪になって話しながら、とても楽しそうに考え、しかも大人顔負けの議論をする姿に、私は感銘を受けました。そしてこれは子どもだけではなく、大人にとってもいいのではないかと思い、その後、学校のみならず企業や地域コミュニティ、子育てサークルなどで、哲学対話を実践してきました。
哲学対話のやり方
哲学対話は通常、10人から20人くらいの人が輪になって行います。「輪になる」ということには意味があります。学校では先生が前に立って、生徒は列になって前を向いて座っています。これは原則的には先生だけが発言権をもち、生徒はみな黙って聞いていなさいという意味です。他方、円は前も後ろもありません。だから輪になればお互いに対等になり、誰もが発言していい場となります。
そして話し合うテーマは自分たちで決めるというのも、哲学対話で大事にしていることです。通常、参加者が問いを出し、その中から投票で選びます。人から与えられたのではなく、自分たちで探し、決めた問いだからこそ、自ら考えることができ、しかもそれが楽しいのです。
問いが決まったら、対話を始めるのですが、いくつかのルールがあります。ルールは実践している人によって違いますが、私は以下の8つをルールにしています。
まず①の「何を言ってもいい」は、最も重要なルールです。何を言ってもいいところにしか、思考の自由はないのです。私たちは普段周りを気にして言いたいことを言いません。否定されたり、怒られたり、恥をかいたりするのを恐れるからです。だから②の「否定的な態度をとらない」というルールがあります。否定的な反応がなければ、安心して言いたいことが言えます。
ただしそれは、つねに賛成や共感をしないといけないということではありません。違う意見を言ってもいいのですが、否定はしないということです。分からないこと、納得できないことがあるなら、質問すればいいのです。
だから③の「お互いに問いかけるようにする」というルールがあります。しかし、私たちはそもそも問うことに慣れていません。学校でも職場でも、質問すると怒られたり笑われたりすることがあります。また質問するほうが怒って相手を責めていることも多いです。このように質問することは、自分も相手も不快な思いをすることが多いので、たいていの人が質問はしないほうがいいと思っています。しかし私たちは、問うことではじめて考えを明確にし、深めることができるのです。
ルール④の「発言せず、ただ聞いているだけでもいい」は、無理やり話をさせられずにすむようにします。私たちはしばしば発言を求められますが、そうすると、その場しのぎで無難なことを言ってそれ以上考えようとはしなくなります。話さない自由がなければ、話す自由もないのです。ある高校生のイベントで、普段は話すのが苦手だという男の子が「今日は話したくなければ話さなくていいと言われたので、安心して話せました」と言っていて、非常に印象的でした。
ルール⑤「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」は、多様な人が参加できるようにしてくれます。普通、学校でも社会でも、知識を身につけて話すのがよいとされます。しかしそれでは知識の多い人(学歴の高い人、年上の人、専門家)が対話を支配し、他の人はただ聞くだけになります。しかし経験にそくして話せば、子供も大人も、職業や経歴が違う人も、一緒に話ができます。
ルールの⑥は「意見が変わってもいい」です。哲学対話は、共に考える場であって、自分の立場を主張し、守る場ではありません。むしろ自分の立場を固定せず変えた方が、思考の幅が広がります。
⑦の「まとまらなくてもいい」も、自由に話すために重要です。普通は話がまとまらないのに話すのはよくないとされるが、それも気にしなくていいのです。自分がまとめられなくても、他の人がまとめてくれます。
最後の⑧「分からなくなってもいい」はもっとも哲学的でしょう。一般に分かることはいいとされています。だから分かっていなくても「分かりました」と言います。しかし「分からない」とは、問うことがあって考えることがあるということなので、哲学対話では常にいいことなのです。
哲学対話の実践から分かること
哲学対話は、以上のようなルールにのっとって進めます。
自由に話し、自由に考えるのにルールがあるのはおかしいという意見もあります。しかし先ほど述べたように、普段の生活の中では、何でも言っていい場は、まったくと言っていいほどありません。それは自由な発言と思考を禁止し、抑圧する力がそこかしこに働いているからです。哲学対話のルールは、そうした力から私たちを守ってくれます。
しかもそれらのルールは、一般的な話し合いとは、まったく違っているか、むしろ正反対であることが分かるでしょう。もし哲学対話が考える力を育てる条件を提供しているのだとすれば、学校も会社も、考える力を育てる場所にはなっておらず、むしろそれを阻んでいるということです。だから哲学対話のルールで言われていることがどれくらい実現されているかで、そこが考える力を育てる場になっているかどうかが判断できます。
さらに、対話という形でそれを行う利点もあります。自分で考えたことを他の人に伝えようとすれば、言葉の選び方、話の組み立て方も身につきます。対話を通して異なる意見を聞くことで、自分の考えの前提に気づいたり、自分の立場をより広い文脈に位置づけたりできるようになります。
また自由に発言し、相互に問いかけることで、互いを尊重し、違いを受け止められるようになります。こうして対話を通して一緒に考えることで、お互いを理解し、信頼し合える人間関係ができます。それどころか、理解できない相手ですら、考えるきっかけを与えてくれる存在として受け入れられます。
また、結論の出ない話し合いをするのは、時間の無駄だということもよく言われます。しかし、些細なテーマであっても、じっくり掘り下げて話し合えず、安心して意見を言える人間関係もできていないのに、重要な決定をする議論などできるのでしょうか。何かを決める時、“声の大きい人”の意見が通ったり、根回しが必要だったり、「あいつが言うなら反対しよう」という不毛な足の引っ張り合いが起きます。そうなれば、せっかく結論を出しても、あまりいいものではなく、多くの人が納得していなかったりしてうまく行かず、結局何度も話し合わなければいけなくなります。
ある学校で、いじめについて対話をしていたところ、「なぜ人がいじめられているのを見ると笑うのか」という疑問が出てきたそうです。結局、他の人に合わせているだけで、誰も本気で面白いとは思っていないことが分かりました。するとその後、人がいじめられているのを見ても、誰も笑わなくなり、それを止める人も出てきて、次第にいじめがなくなったそうです。自由に考え、結論を急がなかったからこそ、「いじめ」というきわめて難しい問題を、とても良い形で解決した例だと言えます。
以上のことからとても重要な示唆が得られます。
「考える力」は個々人へのトレーニングや競争によって身につくわけではありません。自由に問い、何でも話せる場を作ること、それによって信頼関係を作ること、それこそが考える力を育てるのです。そうしてそれぞれが自分で考えるようになれば、自ら行動したりお互いに協力したりすることもできるようになるのです。
ここ数年で、学校関係者のみならず、企業や自治体など、哲学対話に関心をもつ人が増えているのですが、ここには今の時代の要請に応える活路があるのかもしれません。