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「日本の教育格差」(視点・論点)

早稲田大学准教授 松岡 亮二

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 戦後、日本では教育が広く普及してきました。1970年代の半ばには、高校の進学率が9割を超え、4年制大学への進学率も90年代以降緩やかに上昇し、2009年には50%を上回りました。
 社会全体が平均的に高学歴化してきた一方で、本人が選んだわけではない初期条件である「生まれ」と教育成果の関連は、いつの時代においても確認されてきました。「生まれ」とは、たとえば、出身家庭や出身地域、教育成果とは学力や最終学歴などです。

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 こちらの概念図をご覧ください。家庭と地域という「生まれ」によって、学力や最終学歴に差がある状態を「教育格差」と呼びます。一方、頻繁に混同される言葉に「学歴格差」があります。たとえば、有名大学卒であれば、大企業や官公庁に就職し、安定した社会的地位と収入を得る可能性が高まることを指します。すなわち、学歴によって様々な機会や処遇に差があることを意味します。
換言しますと、「生まれ」によって最終学歴に差がある前半部が「教育格差」で、高い学歴によって就職や収入が有利になる後半部が「学歴格差」です。
 今回はどんな「生まれ」の人が、より高い学歴を得るのかという前半部、「日本の教育格差」について大枠を解説いたします。

 まず、全体像をお伝えしましょう。戦後日本社会は常に「教育格差」社会です。

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 こちらの図は、2015年に実施された大規模な社会調査の分析結果を、簡易的に示したものです。父親が「大卒」かそうではない「非大卒」かによって、子供が大卒になった割合を男性について世代別に示したものです。
 2015年時点の20代では、父親が「大卒」だと約80%が大卒になりました。一方、父親が「非大卒」であるとその子供の35%が大卒となりました。
父親が大卒である割合は、若い世代ほど高まってきていますが、それでも父親が大卒かどうかという粗い区分で、子供の最終学歴に明らかに小さくない結果の差があることがわかります。女性についてもすべての世代で同じ傾向です。 

 このような結果の差の背景には、父親の学歴によって様々な教育「環境」の有利・不利があると考えられています。ここからは、この「生まれ」が学歴に変換されるまでの過程の一部をご紹介いたしましょう。

 まず、未就学段階ですでに格差は存在します。大卒の親は、子供が教育的な時間を過ごせるように「意図的な養育」をする傾向にあります。たとえば、安定した生活リズムを保ち、本の読み聞かせをし、幼稚園を利用し、習い事の開始時期も早く、テレビやゲームのようなメディアに使う時間を抑制します。

 小学校でも同様で、大卒の親の子供は入学時点で学習準備ができている傾向にあります。大卒の親は、日本全体に等しくバラバラに住んでいるわけではないので、日本の児童の約98%が通う公立校であっても、学ぶ準備が整った子が多くいる学校と、そうではない学校があります。この学校間格差は、学年が上がっても変わりません。

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 こちらの図は、小学校4年時の学力の学校間格差を示しています。大卒の親の割合が高い学校ほど、平均的な学力が高いという傾向があります。どのような学力の同級生がいるのかという教育「環境」に、学校間格差があることになります。 
家庭間・学校間それぞれで教育「環境」が異なるので、子供たちは異なる経験を積み重ねながら成長します。これは公立中学校であっても、1年生の時点で、生徒の間には大きな「経験蓄積格差」があることを示唆しています。
多種多様な経験を蓄積してきた生徒たちは、中学校の生活に適応し、学校外学習時間が長く、大学進学を希望する傾向にあります。

 学校間の教育「環境」格差は、中学校においても見られます。

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たとえば、こちらの図にあるように、親の大卒割合が高い中学校では、大学進学を期待している2年生の割合が高いことがわかります。同様に、親の大卒割合が高い学校では、学力が高く、通塾し、学習時間が長く、テレビやゲームの時間を抑制する傾向にあります。
このような、同級生の学力・意識・行動といった各学校の「ふつう」は、学校文化の基盤であり、重要な教育「環境」と考えられるのですが、学校間で大きな格差があるわけです。

 親の学歴や収入という「生まれ」によって学力が異なるまま、高校受験という学力選抜を行うので、学校間の「生まれ」格差はさらに大きいものになります。

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 こちらの図の縦軸は、生徒の家庭の社会経済的地位の学校平均を指します。
英語でSocioeconomic statusというので、ここではSESと略しましょう。
SESとは、経済的・文化的・社会的な要素を統合した概念です。親の教育年数が長い、家庭の蔵書数が多いなど、様々な家庭の特性を学力のような数値にしたものです。
 この図から、学校ランク、いわゆる入学難易度を示す偏差値が高ければ高いほど、生徒の家庭のSESが平均的に高い学校であることがわかります。
社会経済的に恵まれた「生まれ」の子供の割合が高い進学校では、卒業生のように有名大学を目指すことが規範となります。一方、高校受験制度によって低いSESの生徒が集められている「教育困難校」では、勉強に打ち込む同級生は少なく、中退すら特別なことではありません。学力だけではなく、似たSESの生徒を制度的に集めることが、各高校で大きく異なる学校文化の背景にあると考えられるのです。
 高校教育制度は、実質的に「生まれ」によって、「誰」が同級生であるのかを含めた教育「環境」の学校間格差を作っているわけです。 

 駆け足で日本の実態を見てきましたが、国際比較調査のデータがあるすべての国や地域で、「教育格差」を確認することができます。日本の「教育格差」の程度は先進国の中では平均的で、特に格差が大きいわけでも小さいわけでもありません。日本は凡庸な「教育格差社会」なのです。

 ここまで、高い学力や大学進学を「成功」の基準として「教育格差」を見てきました。
もちろん、大学進学が目指すべきすべてではありません。ただ、恵まれていない「生まれ」の子供たちが、何か進学以外に打ち込んでいるのであればいいですが、少なくとも平均的には、テレビやゲームなどをする時間が長いのが実態です。
これらのデータが示すのは、本人が選ぶことのできない「生まれ」によって、何者にでもなれる可能性が制限されているという、日本社会の現実なのです。

 現行の教育制度は、建前としての「平等」な機会を提供していますが、平均寿命が80歳を超える時代となっても、10代も半ばのうちに「身の丈」を知らせる過程を内包しています。「生まれ」による教育「環境」の格差という実態と向き合い、積極的な対策を取らなければ、少なくない子供たちが打ち込むべきものを見つけられないまま、わたしたちは戦後ずっと続いてきた「緩やかな身分社会」を維持することになります。それは、一人ひとりの無限の可能性という資源を活かさない、燃費の悪い非効率な社会です。

 では、わたしたちには具体的に何ができるのでしょうか。
1つは、調査データで都合の悪い現実を見据えることだと私は考えています。みなさんも大学入試改革のような「教育改革」のニュースを耳にしたことが何度もあると思います。
これらの「改革」の多くは、調査による客観的なデータによる現状把握に基づかない、いわば「思い込み」によって行われてきました。

改革の中身である「対策」も、研究結果に基づいてきたわけではありません。さらには、効果を測るための「データ取得計画」が事前に作られてきていません。これは「改革」の実行そのものが目的で、実際にどのような結果になるかは「どうでもいい」と言っているのと同じです。このような「改革」の「やりっ放し」では、前の世代の失敗を似たような形で繰り返し続けることになります。データで現状と向き合う、研究に基づいた対策を実施する、効果を検証する、というサイクルを確立する必要があります。

 もう一つの私の提案は、大学生が教職課程で「教育格差」を学べるようにすることです。残念ながら、現時点では、大半の教職課程で、「教育格差」は体系立てて教えられていません。先ほど触れましたように、公立の小学校であっても学校間には大きな格差があります。
一方、教職を志望する学生は、平均的には恵まれた「生まれ」であることが分かっています。学生たちが自身の教育を受けた経験が必ずしも「ふつう」ではないことを自覚し、どのような「生まれ」の子供たちにも寄り添うことができるようになるために、「教育格差」の教職課程必修化を切望します。

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