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「人生の最期をどう迎えるか」(視点・論点)

日本在宅ケアアライアンス 議長 新田 國夫 

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医療の情報を医療者と患者が共有するインフォームドコンセントはすでに定着したのだろうか。患者は自分の受ける医療に関して十分な情報開示を受け、患者自身の価値観、治療目標に沿って、自己決定をする権利を持っています。歴史は古く1900年代から始まりますが日本では1980年代の後半になり急速に広まることになります。

しかしながら日本においては、医療の現場において医療側と患者側の情報量、内容の理解が不均衡にて、実施されることが難しく、医療者の判断が中心として行われていた時代にインフォームドコンセントが導入されることになりました。その後、医師に判断をお任せする時代から情報提供時代、共有時代に変わっていきます。医療情報は医師と患者の情報の理解度に差があるのは当たり前として、患者は専門家である医師が進める治療に同意するはずであるとの医療側の先入観で行われていましたが、それを聞いた本人が医療同意することも、医療拒否することも、自分の価値観で判断することで成立することがインフォームドコンセントです。
インフォームドコンセントの在り方についての検討会が開かれ、その中で強いて訳語を当てはめるのは適切ではない。インフォームドコンセントの実践は推進されるべきであり、これを法律の中に明文で規定することは、インフォームドコンセントを画一化、形式化し、医師の責任回避のための道具とし、医師患者の信頼関係を破壊することになりかねないとしました。

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以上の中で2007年医療法改正において、医師 歯科医師 薬剤師、看護師その他医療の担い手は、医療を提供するにあたり、適切な説明を行い、医療を受けるものの理解を得るように努めなくてはならない。現在もこの条文は継続しています。
近年、認知症の方も含めて判断ができない方、あるいは突然の意識障害で判断ができない状態で病院に運ばれる方、またいわゆる終末期といわれる状態像が出現し、自己判断能力ができない方が多くみられます。
ACP(アドバンス・ケア・プランニング)はそうした時代背景と相伴い登場しました。
ACPはインフォームドコンセントを基本にした共同意思決定であり、新しい時代の在り方といってよいと思います。
この度、厚生労働省はインフォームドコンセントと違いACPをなぜ人生会議と命名をしたのでしょうか。ACPは理解されるのが難しいからです。その背景を考えてみましょう。
人生会議の国民への啓発としてキャンペン事業の一環としてポスターが作られました。今回のポスターには批判が出ています。後悔を感じさせる恐怖感を与えることで本当に人生会議をしようと思うのでしょうか、など。ポスターに対するご意見は貴重な指摘であると考えます。特に人生の最終段階における意思決定の判断は個人の価値観が伴うものであり、価値観は多様性であり、国が個人の価値観を押し付けるものではないことは当然です。個人の意思決定支援のために本人を中心とした関係者が理解することが必要で、強制される会議ではありません。ご本人もその時により考え方が変わるので丁寧に話し合いを行うことが必要です。人生会議の名称も含め、問題を指摘されたことにより、議論を先送りするのではなく、十分に配慮しながら、個々人がどのように最後まで生きたいのかを話し合う機会を失うことは、私たち国民の権利を放棄することになります。

さてACP でありますが、諸外国で議論されているACPはあらゆる年齢、そしてどのステージにおいても本人をサポートし、将来の医療に関する個人的な価値、人生の目標、好みを理解し共有するプロセスとしています。日本医師会のACP定義は将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて患者さんを主体に、その家族や近しい人、医療ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、患者さんの意思決定を支援するプロセスであり、患者さんの人生観や価値観、希望に沿った、将来の医療及びケアを具体化することを目標にするとしています。両者の違いは、諸外国はあらゆる年齢としていますが、日本においては、将来とは、人生の最終段階における意思決定支援としていることです。もう一つの違いは、日本におけるACPの概念の中にはケアが入っていることです。この場合のケアは介護を意味します。

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この図は、在宅で暮らしている方、病院で入院している方かどうかにかかわらず、生活の充実と人生の満足が常に必要な視点であることを示したものです。人生のあらゆるターニングポイントで、医療にかかわる判断があり、たとえ介護を受ける状態になったとしても、人生の最終段階まで、個々人の生活の満足、生きがいが実現される医療ケアを本人家族を含めて適切な選択肢が必要であることを示したものです。人生の最終段階においても、医療を選択するのか、しないのかを話し合い選択を行う、それは会議という形ではなくともよいでしょう。

超高齢社会を迎えた日本人はいつまでも元気に日常生活を暮らすことができない方が増加します。健康に生活できない原因は一つではなく多くの要因が重なります。病気、社会環境等です。その後、個々人は、長い療養生活を行うことになります。
80代後半の方で本人は延命治療は受けたくないと意思表示をされていた方が突然意識障害となり、救急にて病院へ入院されました。本人の意思は家族も了解していましたが入院時より病院の医師より人工呼吸、その後気管切開、胃ろうの選択を迫られ、家族の了解のもとに行われました。家族の懸命な努力にて、現在は自宅で生活を楽しまれています。このようにたとえ意思決定がなされていてもそれに反する医療が行われたとしても、家族本人の日常生活への努力にて本人の生きがいを支えることも重要であります。
長い療養生活の中での医療選択が多々あります。最善の医療を医療側が提示したとしても本人の意思の最善が優先されます。その中には治療の拒否権もあります。
今問題になっているのは超高齢期の医療の選択です。
92歳急性呼吸不全にて在宅酸素が導入され、息子さんが在宅で熱心に介護をされ、在宅で最後は看取る決心をされ、本人も了解されていましたが、突然脈が触れなく救急車を呼び、救命センターで息を引き取られた方もいます。家族の驚きは当然です。あらかじめ予測される病態像をどのような形で何時、だれと、本人も含めて話し合いを行うのかです。何が起こるか不確定要素がある中で、未来に向けて正解を導く意思決定は不可能ですが予測が可能な場合も多々あります。
最近、一人暮らし、希少癌で亡くなられた方がいます。病院ではなく、家族からの依頼により訪問診療を開始した時には肺転移憎悪に伴う低酸素、食事摂取不能、とう痛、にて全身状態が悪化した状態でした。訪問看護、訪問介護、介護ベッドの導入等迅速に社会調整をしましたが、ご本人の病気に対する認識が追い付かず、訪問時も完治を目標に掲げておられました。家族もがんのステージや余命など病状の把握がなされておらず、死期が迫り、意識が残っている中で なんでわたくしがこんな目にと最後に言葉を訴えられました。いよいよになり、気づいた時には、どの選択も選べず、つらい思いをしながら亡くなる方、それにつきそう家族が多くいらっしゃいます。
残された時間と最後の場所をご本人、家族に事前に考えていただき、信頼に足りうるかかりつけ医を含めて有意義に何度も話し合っていただく機会を作り、残された命を大切に送っていただければと思います。

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