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「ノートルダム大聖堂の修復をめぐって」(視点・論点)

公益財団法人日仏会館 理事長 福井 憲彦

 先の4月15日、パリのノートルダム大聖堂で起こった火災には、現地パリの市民やフランス国民のみでなく、世界各地の人々が驚き、ショックを受けました。時差の関係で、私は翌日16日朝のニュースでこれを知り、屋根と尖塔が燃えて崩れ落ちる画面を見て、信じ難いようなことが起こったと仰天しました。外見が石造りの大聖堂も、内部構造は木組みが基本であるということは、我々はすでに知っていましたから、一体、火災などへの危機管理体制はなかったのか?という思いを禁じえませんでした。火災報知機はあったようですが、極めて不十分な体制であった点は否定できません。

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 マクロン大統領やパリ市長は、5年後を目途とした修復再建、そのための国民・市民の団結ということを、すぐに表明しています。東京の次のオリンピックはパリで5年後に開催ですから、それに間に合わせたい、という思いもあるのかもしれません。わからないではないのですが、しかしまた、ここは、フランスにとってだけでなく、カトリック教徒にとってだけでもなく、世界にとって、重要な歴史遺産としての価値を持った大聖堂ですから、たとえ時間がかかるとしても、長い先を見つめて、さまざまな検証をした上で、修復再建に取り組むことが必要ではないかと、そう思います。

 パリのノートルダム大聖堂が建てられ始めたのは、12世紀後半でした。当初の建築が一応の完成形となったのは14世紀半ばのことです。日本の歴史でいえば、平清盛の時代から、南北朝にかけての時期に当たります。2世紀ちかくの時間をかけて建てられた基本形が、その後、現在にまで存続しているということ自体が、貴重なのだという超長い時間のスケールを、何ともせわしなく生きている現代人は思い起こす良い機会なのではないか、と思います。
 創建の時代以来長らく、機械などはない時代ですから、全ては手仕事です。まだ芸術や芸術家という概念がなかった創建の時代において、ステンドグラスの制作にしても、石の積み上げや石への彫刻、あるいは石の聖人像などの作成、巨大な木造の骨組みを立ち上げる大工仕事、これらを見事にこなした当時の熟練職人たちの手わざのすごさを、今にまで伝える極めて貴重な、建物全体が芸術作品としてのアート、と言って差し支えないものなのです。
 このことは、パリの大聖堂に限ったことではありませんが、しかしパリのノートルダム大聖堂は、パリにとってだけではなく、フランス全体にとって際立つものでもあり続けて来たということが、特徴として指摘できます。
 12世紀にパリの大聖堂の新築が決められ、工事が進み始めた時代というのは、ちょうどフランス王権が、パリを王都として強化し始めた時代に当たります。セーヌ川の中の島であるシテ島では、西側に王宮が整備され、東側に大聖堂が立派に建てられ、聖と俗のフランスを代表する建築が、島の東西に位置づけられることになります。建て替え前の大聖堂は、サンテチエンヌ大聖堂という名前でしたが、新たな大聖堂にはノートルダム、すなわち聖母マリアの名前が付けられました。ちょうど、この頃からキリスト教の布教が、農民や都市の民衆の間にも、本格的に浸透し始めていったと、歴史学の研究では理解されています。民衆階層では、キリスト教以前からのケルト・ゲルマン的要素を帯びているような信心の世界があった、そこにキリスト教が浸透していくにあたっては、聖人であるとか聖遺物といった、いわば分かりやすい媒介が重要になりました。

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聖母マリアは、まさにその極めつきであったといってよろしいでしょう。こうして、パリのノートルダム大聖堂には極めて高い象徴的な意味が、パリにとってはもちろん、フランス全体にとっても与えられるようになっていくのです。フランス国王の諮問会議である全国三部会の最初の会合が、フィリップ4世によって招集されたのが、まだ完成途上にあったこの大聖堂でした。また15世紀半ばに、いわゆる英仏百年戦争の戦勝の祝典をシャルル7世が開いたのも、この大聖堂においてでした。
 確かに、この大聖堂は、フランス革命の際に、革命派の一部が展開した過激な反キリスト教運動の中で、破壊の対象にされたことがありました。

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革命を引き継いだナポレオンが皇帝になった際、このパリの大聖堂で戴冠式を行ったことは、ルーヴル美術館にあるダヴィッドの巨大な絵で有名です。ナポレオンは、フランス人の代表としての皇帝、という姿勢をアピールするために、パリのノートルダム大聖堂を選びました。パリの大聖堂の象徴性の高さにかけた、とも言えるかと思います。しかし革命期に荒れてしまった大聖堂の建物は、その後もしばらくは手入れされずにいました。
その歴史的価値に改めて気づかせるきっかけを与えたのは、ロマン派の作家として売り出し中であったヴィクトル・ユゴーが1831年に出した歴史小説『ノートルダム・ド・パリ』でした。そして同じ時期に起こってきていた歴史的建造物の修復保全政策の中で、その監督官を務めたプロスペル・メリメ、そうです彼もまた、ビゼーがオペラにした『カルメン』の原作者でもあった文学者ですが、このメリメに起用されて活躍したのが、ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクという建築史家でした。彼が主導してノートルダム大聖堂の修復保全が進められ、今回焼失した尖塔もその時に付けられたものなのです。修復方針については、反対意見も含めて多くの異論が出され、大変な議論があったことが知られています。
 
今回の火災では、パリの消防士たちの命がけの活躍のおかげで、燃え落ちたのは縦長の本堂の屋根の部分と、そこにつけられていた尖塔のみでした。

VTR(火災前のノートルダム内部)

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ヴォールトと言われる、かまぼこ状にのびるアーチ天井の構造部分は、奇跡的に焼け残っていると言います。幸いにして、石でできた壁面や、西側に位置するファサード、つまり正面入口や、そこに付けられている有名なステンドグラスのバラ窓、ファサード左右にそびえている二つの塔や、本堂の中央部から南北にのびる交差廊と、その両端に位置するバラ窓、これらをはじめとしたステンドグラスの大きな窓は、焼け落ちることはなかったようです。しかし、火災に伴う高熱や消火のための放水を受けていますから、それらの状態については、慎重に調査する時間が必要なはずです。また、巨大な建物全体を風雨から守り、修復再建作業を確実に進めるための覆いの建屋をかけることも必要かと思います。当然フランスの専門家たちも動き始めているはずです。
 修復再建のための寄付はすでに巨額が集まりつつあるようですので、日本からの支援ができるとすれば、例えば世界一と言って良い木工技術を持った宮大工さんたちのチームを公的資金で送り込むといった、実質的な文化技術支援ができれば素晴らしいと思います。何れにしても、修復の方針を確定するための議論をフランスがしっかり進めて欲しいと願っています。パリのノートルダム大聖堂は、個々の人間の一生とは全く異なる長い時間のスケールの中でこれまで存在し、そしてこれから先もそうした長い時間のスケールの中で存在してほしいモニュメントだからです。

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