2007年05月21日 (月)視点・論点 「新左翼とその遺産」

 同志社女子大学の政治学を教えております大嶽と言います。
 最近、『新左翼の遺産』という本を書きまして、東大出版から出させていただきましたが、
今日はまず、新左翼とは何かということからお話したいと思います。
     
同志社女子大学教授 大嶽秀夫 

<放送>ETV 午後10時50分~11時 <再>総合 午前4時20分~30分

 新左翼と言いますのは、1960年代、つまり、現在定年退職を迎えておられる方々が、
学生時代、大学生の頃に、世界で同時多発的に発生した社会運動と言っていいと思いますが
この新左翼と言いますのは、それまでの左翼、つまり共産党、あるいは共産主義国家、
社会主義運動、労働運動、ケインズ型福祉国家と言われる、西欧の社会主義政権のもとで
生まれた国家、そういうものに対して異議を申し立てるといった運動でありました。

 まず、1956年、フルシチョフがスターリン体制を批判いたしました。
それに呼応するかのように、ハンガリーの労働者や国民が民主主義や自由を求めて
立ち上がったんですが、ソ連の軍隊によって無惨にも鎮圧されてしまったという事件があります。
 この事件によって、それまで社会主義、共産主義を信じていた人たちが非常に強い幻滅を
味わって、共産主義に代わる新しい左翼を求めていったというのが新左翼の始まりです。

 それから、これは日本についてのことですが、1958年というのは、高度経済成長がようやく
その果実を現わし始めて豊かな社会が登場し始めた。ミッチー・ブームと書きましたのは、
現在の皇后であります美智子様が皇太子妃になられて、それを皆がテレビで鑑賞するという
そういう時代を象徴していたブームであります。
 大量消費社会という豊かな社会が誕生したということなんですが、それによって労働運動が
保守化するというか、体制内化するというか、それまでの新しい社会を目指す運動としての
ダイナミックスを失ってしまったことに対する批判が登場したわけです。

 1960年に、日米安保条約の改定ということが起こりまして、それに対する反対運動が
起こりますが、この運動は、労働運動や、左翼、あるいは共産党というものが、
どうも動きが鈍いと。それに対して、もっと強く反対する運動をしなくてはいけないというふうに
登場して来たのが、新左翼が、ある程度大衆的な運動になったきっかけであります。
 
 これが通常、新左翼の第一派、最初の流れですが、第二派と言われるのが、1968年の
大学の紛争です。これは非常にたくさんの大学で、大学紛争が起こったわけですが、
これもやはり全世界的に広がった運動であります。
 この大学紛争においては、それまでリベラルな人と思われていた大学教授が
批判の対象とされた。あるいは、医学部の封建的な体質というものが問題になって、
お医者さんたちの権威主義的な態度というのが、批判の対象になったのであります。
 
 そういう意味で、それまで国家に対して、国民や、あるいは市民を守ってくれていると
思われていたリベラル勢力というものが、実は、もう既得権益になってしまったと。
 あるいは、パターナリズムと言いますが、市民や国民に代わって、その利益のために
行動しているという、非常にお前のためにやってやってるんだから俺の言うことを聞けという
態度を見せた。それに対する非常に強い反発でありますね。
 これは当時、管理社会、あるいは管理国家に対する反対という形で登場したわけです。

 もう1つ、68年に重要なのはベトナム戦争であります。これは、大変残忍な戦争で、
テレビで毎日のように残忍な戦闘行為が放映されたわけですが、ここで重要なのは、
実は豊かな日本国民というのは、ベトナム人の血によって平和と繁栄を味わっているのでは
ないかという、国民、大衆というものが加害者であるという認識です。

 これがさらに日中国交回復の時代になりますと、韓国、あるいは中国で、日本人がどれだけ
残酷なことをした、ごく普通の日本人が加害者であったという、認識が生まれてまいります。
 これが新左翼の第二の柱でありまして、先ほどの管理社会、管理国家というのと比べて、
それに対して、むしろ大衆自身が加害者であると。
 そしてマイノリティ、在日韓国人、あるいは同和、部落の人、さらには女性といった、
そういうマイノリティの人たちのアイデンティティを大事にしなければいけないという発想が
登場して来たわけです。
 これが、最初の管理社会というのに対しては、参加とか直接民主主義とかいった議論が
登場しますし、マイノリティの権利というところでは、多分化主義とか、あるいはいろんな多様な
生き方があっていいんだという主張、これはゲイとかレズビアンの人たちにもそういう生き方を
認めようという動きであります。

 こういう意味で新左翼運動というのは、1972年、浅間山荘事件という、大変ショッキングな
内ゲバの果てに殺し合ったという事件によって運動自体は衰退して行くわけですが、
社会風潮、思想として流れて行く。

 最初に現れたのが、全共闘世代の人たちが親になった段階ですが、親として
丸刈りの強制、あるいは制服の強制というものに反対する。
管理教育に対する反対運動というのを、親の立場から起こし始めるということになります。
 これは第二臨調という、ネオ・リベラリズムと言われる、新自由主義の考え方と共鳴して、
それまでの左翼に対しても、右翼に対しても反対するという運動として展開されます。
 これがやがてフェミニズム、マイノリティの1つとしての女性の平等ということから、
85年には均等法、男女の雇用を均等にするという主旨の法律が出来ます。
 それから、さらに重要なことは、DV法と言いますが、家庭内暴力、特に、夫が妻に対して
ふるう暴力を阻止しなければいけない。
 ここでは家庭というのが、1つの権力のかたまりだと言いますか、父親の権力、親の権力が
問題にされた新左翼の発想を強く受けて登場したものが、法律として成立されると。
 それが2004年に改正されて、小泉内閣の行政改革、構造改革の一環として実現を見た。
 小泉内閣というのは、非常にネオ・リベラル的、新自由主義的な、小さい政府を目指した
政権でありますけれども、それが同時に、新左翼的な流れを汲む、こういった改革運動と
いうものを取り込んでいたということを、良く示していると思います。
 それが現れているのが、男女共同参画を、小泉内閣の構造改革の1つとしたというところに
あるかと思います。
 最近ではこの流れが、司法改革、裁判の改革にも登場しております。
 裁判の改革というのは、陪審員制度という形で通常の素人と言いますか、そういう人たちが
積極的に裁判に参加する。また同時に被害者の立場から、被害者の人たちが裁判制度に
参加して行くということになります。
 この背景には実は裁判官、弁護士が、先ほど言いましたパターナリズムの考え方に立って
あまりにも加害者、犯罪者を保護し過ぎているという観点から、より素人を裁判に参加させる
ことによって、国民の利益を擁護したいという、新左翼の一つの遺産が
ここへ流れこんでいるのではないかと思います。
 そういう意味で、今日は、その源流としての新左翼についてお話いたしました。

投稿者:管理人 | 投稿時間:23:09

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