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「平和への願いを込める賛歌」(視点・論点)

声楽家 コロンえりか

今日、皆様はどのような一日を想像して目覚められたでしょう。何気ない日常の中で、73年前に思いをはせてみると戦争を知らない世代として大きな責任感に駆られることがあります。
1945年の八月、戦時中にあっても、今日と同じように一日を始める人々の暮らしがあったことを想像してみてください。8月6日の広島、そして8月9日の長崎で投下された原子力爆弾は、前触れもなく、人々の『日常』を破壊し、人類が初めて経験した惨劇でした。瞬時に亡くなった20万をこえる人々と、その横で生き延びた人々。生きていることが、苦しみや絶望の海に投げ出されるかのような、あの日の朝は、どんな人間にも想定できなかったはずです。
今日は、原子力爆弾を生き延びた被爆のマリア像をめぐるお話と、このマリア像へ捧げられたアベマリアについて、心からの平和への願いとともに紹介させて頂きます。

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被爆マリア像は、爆心地から近かった長崎県の浦上天主堂のがれきの中から奇跡的に発見されました。
鎖国時代、キリシタンたちが毎年小高い浦上の丘で踏み絵をし、7世代に渡って信仰を受け継いだことは世界にも例を見ない出来事で、明治時代のキリシタン発見は驚きと感動を持って世界に伝えられました。なぜ、彼らは自分の命や、子供達の命をも危険にさらしながら、キリスト教の教えを伝えていったのでしょう。命よりも大切に守り抜き、後世に伝えたかったメッセージは今でも長崎の地で生きているように思えてなりません。それは自らの痛みを顧みずに、ただ平和を願う思いのために苦しい過去を打ち明けてくれる被爆者や、決して希望を捨てない、信仰ある人々とも重なるように感じられる時があります。

隠れキリシタンの末えいたちは、明治時代、信仰の自由が認められるようになってから、30年かけてレンガを一つ一つ集め、自分たちの教会を建てました。旧浦上天主堂は当時アジアではもっとも立派な教会でした。その天主堂が完成してから25年でその日はやってきました。1945年8月9日、午前11時2分。プルトニウム原子爆弾は浦上天主堂からたった500メートルの場所で炸裂し、浦上天主堂を含む一帯が一瞬のうちに消えてしまいました。

浦上地区では約12000人の信者のうち、70%にあたるおよそ8500人がなくなったと言われています。教会の中央に祀られた2メートルほどの美しいマリア像は、頭の部分だけを残し、目は溶けて、空洞になりました。黒く焼け焦げたマリア像は、それでも祈り続ける姿で、野口嘉右衛門神父の手によって発見されました。マリア像は、野口神父と一緒に北海道のトラピスト修道院に渡り、浦上天主堂に戻されるまで30年間大切に保管されました。

私が初めてこのマリア像に出会ったのは、2001年でした。初めはあまりのショックで、直視できませんでしたが、平和への思いを強烈に語るマリア像の姿は心から離れませんでした。
その後、長崎の原爆資料館を訪れた際に、あるかしの木と出会いました。
幹の部分が輪切りになって展示された、被爆したかしの木です。

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真ん中、中央部分にはガラスや陶器の破片がたくさんあります。そのかしの木は原爆が投下された時、若くて細い木だったのです。四方八方から熱風とともに飛んできた無数の破片は痛々しく、幹に刺さりました。しかし、その木は、成長することを、生きることを止めなかったのです。一年ごとに、一つずつ年輪を重ね、いつしかガラスの破片まで包み込んで立派に成長して生きました。外から、痛々しいガラスの破片は見えません。

私はこのかしの木が、被爆者達の姿、そしてマリア像とも重なるように思いました。
内なる痛みをずっと抱え、ガラスの破片を抜くことさえ叶わなかったのに、こうして命を紡ぎ、生きていてくださったことはどんなに大きな希望でしょう。被爆者たちが、辛い過去を、涙とともに辿りながら証言し、未来の私たちに繋いでくださる思いを決して途切れさせてはいけません。

作曲家である、父エリックコロンに長崎での話をしたところ、21世紀のアヴェ・マリアとして被爆のマリアに捧げる讃歌を作曲してくれました。2001年浦上天主堂での初演以降、私は世界中でこの歌を歌っています。

思いがけない事故や不幸、自然災害などで、皆様の中にガラスの破片が突き刺さることがもしかしたらあるかも知れません。
そのような時、どうか被爆したかしの木のように生き続け、祈り続けた人々のことを思い出してください。平和がいつも、ここにありますように。

VTR(被爆マリアに捧げる賛歌)


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