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「太陽の塔のメッセージ」(視点・論点)

岡本太郎記念館 館長 平野 暁臣

今日は太陽の塔についてお話したいと思います。
 今年3月、内部空間が修復を終え、48年ぶりに一般公開がはじまったことをご存知の方も多いでしょう。あるいは「えっ、太陽の塔って、中身があるの?」と驚かれた方がいらっしゃるかもしれません。
今回の一般公開を機に、太陽の塔がどんなメッセージを秘めているのかを考えてみたいと思います。

太陽の塔はいま、大阪・千里の「万博記念公園」に立っています。

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名前が示すように、この公園は1970年の万国博覧会の会場跡地です。戦後日本を代表する巨大イベント、大阪万博に、太陽の塔は屹立していました。

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これをつくったのは、前衛芸術家の岡本太郎です。太陽の塔は、異端の芸術家が、万博のテーマパビリオンとしてつくったものなのです。

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その異様な風体は、西洋の美意識とも和のテイストとも無縁で、世界を見渡しても似たものがありません。〝見たことがないもの〟がいきなりあのスケールで出現したわけですから、とうぜん世間を騒がせ、賛否両論が巻き起こりました。
当時の反応を一言でいえば、大衆が好意的に受け入れたのに対して、知識人が否定するというもので、とりわけ美術界の反発は相当なものでした。馬鹿でかい張りボテ、アナクロ、おのぼりさん相手、牛乳瓶……などなど、識者たちは酷評しました。僕は、そこにはある価値観が通底していたと思います。ひとつは「税金でわけのわからないモノをつくるな」という、ある種の〝良識〟であり、もうひとつは「日本が誇るべきはワビサビ的な伝統美だ」という〝常識〟です。そしてこの良識と常識こそが、岡本太郎が万博を機に打ち壊そうとしたものでした。日本美の流儀からも、西洋美の規範からも外れている。
 それが知識人たちを不快にさせる一方で、大衆を惹きつけたわけですが、ではいったい、なぜ太郎は、万博という晴れ舞台でそのような物をつくったのでしょう?開幕直後、太陽の塔の思想について、太郎はこう言っています。
 「五重の塔ではない日本。ニューヨーク、パリの影でない日本」
 じつは、かねて太郎は「日本人の価値基準はふたつしかない。西洋のモダニズムと、その裏返しとしての伝統主義だ」と主張していました。
 ニューヨーク、パリに手放しで憧れるか、いわゆる〝日本の伝統〟に逃げ込むかのどちらかじゃないか。ともに舶来文化に対するコンプレックスの産物であり、それにノーを突きつけない限り、真の日本文化はひらけないのだ。
そう考えていたのです。

 日本人が長年憧れてきた西洋風のカッコよさや、その逆の効果をねらった「日本調」をともにケトバす。それが太郎のコンセプトでした。
 太郎が日本調を嫌うようになった発端は、若いころの京都体験です。29歳でパリから戻った太郎は、真っ先に京都と奈良を訪れました
 日本の源流に出会えると期待して訪れたわけですが、待っていたのは大きな失望と落胆でした。日本の伝統として今京都に残っているのは形式だけ。奈良にいたっては最初から大陸文化そのものじゃないか。いったいこれのどこが日本なんだ。そう感じたのです。日本人が和の伝統と信じているものは、はたして〝ほんとうの日本〟なのか? 
 もしかしたら最初からそんなものはないのかもしれない。そう絶望しかけたとき、驚愕すべきものと遭遇します。縄文土器でした。

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縄文人の荒々しい造形感覚と出会った太郎は、そのすさまじい生命力に圧倒されます。平面的でひ弱な「日本の美」とは正反対だったからです。
 「驚いた。こんな日本があったのか。いや、これこそが日本なんだ。身体中の血が熱くわきたち、燃えあがる」「これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあった」
 太郎は縄文こそが「オリジナルの日本」なのだと直感しました。モダニズムでもジャパネスクでもない日本。借り物ではない〝ほんとうの日本〟の原風景をそこに見たのです。
 狩猟採集時代、われわれの祖先は、孤独と不安に耐え、自然と溶けあいながら生きていました。そこに息づいていたのは、原始のたくましさと豊かさ、そしてふつふつとたぎる生命力と呪術の感性です。
 しかしそうした原生日本は、弥生になると忽然と姿を消してしまいます。農耕社会への移行が日本人の感性を大きく変えてしまったからです。自然とともに誇らかに生きた民たちが、取り替え可能な「労働力」に変わった瞬間でした。
 そんな農耕文化の精神が、形式的で暗い、いわゆる「日本の伝統」を生んだ。太郎はそう考えます。縄文との出会いから数年後、東北や沖縄を旅した太郎は、原生日本の心持ちがいまも受け継がれている様を眼のあたりにします。

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「日本人のなかにはいまも縄文の精神が宿っている」。そう確信した太郎は、「それを呼びさまし、とりかえす」「それがオレの仕事だ」とおそらく考えるようになったのだろうと思います。

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このころ画風も変わりました。それまでの緻密な画面構成とは打って変わって、梵字にも似た黒いモチーフが画面を支配します。それは神秘的・呪術的な気配に満ちていました。そして1964年にこう宣言します。
 『芸術は呪術である』
 太郎が太陽の塔に取り組むのは、この3年後のことです。
 大阪万博という空前のプロジェクトを前にして、真っ先に思い浮かんだのはこの「呪術としての芸術」の実践だったに違いありません。数千万人が訪れるという千載一遇のチャンスを活かして、日本人の心の奥底に潜んでいる〝縄文の心〟を呼びさます。それが太郎の狙いだった。そう考えれば、太郎がつくったテーマ館の意図も理解できます。
 万博は「未来を祝福する祭典」ですから、パビリオンはみな先端技術や近未来のヴィジョンをアピールします。「技術の進歩が社会を豊かにし、人を幸せにする」、それが万博のメッセージです。
 しかし、岡本太郎のテーマ館は、そうした近代主義的な進歩思想とは対極にあります。

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最初のゾーン〈いのち〉では、生命をつくる物質が観客を包み

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つづく〈ひと〉では、狩猟時代の生きざまを空間いっぱいに描き。

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さらには世界の仮面と神像が宙に浮かぶ、まるで神々の森に迷い込んだような呪術的な空間が現れます。

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そしていよいよ太陽の塔の中に入ると、高さ41mの《生命の樹》という巨大なオブジェが観客を迎えます。1本の樹に、単細胞から人類まで、生物進化の歴史をたどる33種の生き物がびっしりと実っている、という空前絶後のオブジェです。ここでは「根源から未来へと噴きあげる生命のエネルギー」が表現されていました。
 「生命の神秘」からはじまるテーマ館が訴えていたのは、「狩猟時代の誇らかな生き方」であり、「原始社会の尊厳」であり、「生命力のダイナミズム」です。およそ万博パビリオンには似つかわしくありませんが、そこには「裏のテーマ」があったと考えれば得心がいきます。
 『縄文の心を思い出せ!』。
おそらくそれが太陽の塔のメッセージだと思います。しかし当時の観客たちにそれが伝わったとは思いません。「夢の未来」を無邪気に信じていた高度成長の時代には、とても無理だったろうと思います。
 でも、今ならわかります。太郎のメッセージは、古くなっていないどころか、これからの時代にこそ必要なものです。 
万博から半世紀を経て、太陽の塔は内臓を取り戻し、再び生命の火が灯りました
太陽の塔がほんとうの仕事をするのはこれからなのです。

写真提供:現代芸術研究所/岡本太郎記念館


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