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「地図の中の明治」(視点・論点)

地図研究家・エッセイスト 今尾 恵介

 今年は明治維新から数えてちょうど150年ですが、近代国家への脱皮を目指していた新政府がすべきことは無数にありました。早急な整備が求められていたひとつが地図で、国土の開発や都市計画、国防や治山・治水、地租の徴収など、あらゆる事業に先立ってまず必要なものが正確な地図です。新政府でもそれぞれの関係部署が、各種の地図を作り始めていました。

地図といえば、最近ではパソコンやスマホで見るのが当たり前になりましたが、世界地図から詳細な市街地図に至るまで、いろいろな種類の地図の大元になっているのが「地形図」です。現在の日本では国土地理院が整備していますが、その歴史は明治の初期まで遡ることができます。
 地形図の作成が本格的に始まったのは明治13年(1880年)のことでした。迅速測図、略して迅速図と呼ばれる地図ですが、当時は日本最後の内戦である西南戦争が終わった3年後で、明治の政府軍-官軍は、熊本県の田原坂の戦いなど、地理不案内な九州での戦闘に大変苦労しました。この貴重な経験を経て、西南戦争で指揮を執った陸軍卿の山縣有朋は、まず首都・東京のある関東地方全域の地図作成を急ぐよう命じています。

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これが、その「迅速図」の一部です。
 測量の基準点となる三角点が整備される以前なので、経緯度などは記されていませんが、「迅速図」の名の通り、とにかくスピーディに整備が行われました。縮尺は2万分の1、1キロメートルが5センチで表されるものですが、これには当時の市街地や農村、漁村の集落の様子が描かれ、田畑や茶畑、桑畑などの種別を記号で明記した農耕地、それに森林や荒れ地、磯や干潟など、さまざまな様子の地形が図に克明に記録されています。この時に、鳥居の形をした神社の記号や、卍を用いたお寺の記号など、現在も続くいくつかの記号が導入されました。迅速ゆえに測量精度の点ではある程度低いとはいえ、今となっては明治前期の貴重な記録となっています。
 特に、急速に変貌し始めていた大都市部を除けば、ほとんどは江戸時代とほぼ変わらない村の姿や、道路などの交通路、河川などの状況が詳しく記されていますので、現在でも近代はもちろん近世史などの歴史研究にも、この「日本初の地形図」は大いに役立っています。
 このことから江戸時代以前の歴史に関する書籍などにも数多く引用され、また各地の図書館でもコピーが備えられていますので、目にした方も多いのではないでしょうか。この迅速図に続いて、近畿地方の平野部でも少し遅れて明治17年(1894年)から「仮製地形図」の作成が始まりました。
 その後は三角測量による正式2万分の1地形図が-今度は拙速を改めてじっくりと精緻な手法で作成されるようになり、後に全国を網羅する5万分の1地形図に引き継がれていきますが、これが現在の地形図のルーツです。地図の記号としては「迅速図」のものは、特に植生の記号-杉林とか雑木林といった、今は存在しない記号も含めて、それ以降の記号とはかなり異なっていたため、読み取るのが少し難しい点もありましたが、その後の「正式地形図」には、お寺や神社の他に、文(ふみ)の字を用いた学校の記号、郵便局の記号、黒白をハタザオのように並べた鉄道の記号など、馴染みのある記号が多く加わりました。
 明治の10年代までは、他の役所と同様に、地図を作る国の機関も複雑に変遷を繰り返していましたが、兵部(ひょうぶ)省陸軍参謀局に源流をもつ「陸地測量部」が、明治21年(1888年)に創立されています。「地形図は陸軍、海図は海軍」という具合に役割分担が行われましたが、これはヨーロッパ各国などと同様です。
 地形図の作成にあたっては、まず最初に、その土地が地球上のどこにあるかという正確な座標を求めることが必要になってきますが、そのための基準点となる「三角点」を、陸地測量部は日本中に設置しました。その苦労は大変なもので、陸地測量部の多くの職員たちが、場合によっては道なき道で山の頂を目指して重い標石を設置し、そこで測量を行いました。天気が悪くて見通しが利かなければ、何日何日も山の中に待機して晴れ間を待ったそうです。新田次郎の小説『剱岳・点の記』は彼らの奮闘を描いた傑作で、映画化もされています。とにかく、現在のように人工衛星などを利用したきわめて正確な測量が可能となった状況とはまったくの別世界でした。
 さて、先ほどの、日本初の地形図である「迅速図」をもう一度見てみましょう。

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この図は東京・渋谷付近を描いたものです。明治13年(1880年)に測量された後、明治18年に開通した山手線を描き入れたもので、その線路は太い二条線で表されています。線路はまだ単線で、「渋谷停車場」は今の埼京線ホームのあたりにありました。その線路と交差する大山街道-現在の玉川通りは、道玄坂を降りてきて、ガードではなく踏切を渡って宮益坂をのぼっています。
 今ではびっしりとビルが建ち並んでいる渋谷の町はもちろん東京の府内15区から外れた南豊島郡渋谷村で、まとまった家並みは大山街道に沿って少し目立つ程度でした。

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道玄坂の北側に目をやれば、3つ葉のような記号が並んでいますが、これは茶畑です。今では松濤(しょうとう)というお屋敷街になっていますが、ここでは佐賀・鍋島藩の元武士たちがお茶を栽培していました。松濤という地名はその茶園の名前にちなむものです。

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 今は統合されて神宮前と地名が変わってしまった原宿村と穏田村では、渋谷川に沿った谷間に水田が作られ、水車もいくつか架けられていたことが、記号で読み取れます。葛飾北斎が描いた「富嶽三十六景」の中の「穏田の水車」という浮世絵の世界と、それほど変わっていません。

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 その渋谷川と宮益坂下で合流するのが宇田川ですが、その支流は、小学唱歌で知られる「春の小川」で作詞者が着想を得たとされています。当時まだこの歌詞は生まれていませんが、その支流に沿った谷にも田んぼが作られており、台地へ続く斜面には雑木林が広がっていました。図を見ていると、いかにも春ののどかな景色が思い浮かんできます。この谷を数十年後に走り始めるのが小田急の電車です。

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 山手線の東側を見れば、宮益坂を上がって少し行ったところに「英和学校」の文字が記されていますが、これが青山学院の前身・東京英和学校です。この頃から場所は変わっていません。当時は赤坂区の青山南町七丁目でしたが、その後は行政区画の変更で今は渋谷区渋谷となりました。校庭にいくつか見える見慣れない記号は、ヨーロッパ直輸入の「ブドウ畑」という記号で、棒にブドウが巻きついたイメージです。宣教師たちが故郷を思いつつワインを作っていたのでしょうか。勝手な想像がふくらみます。
 地形図は等高線で地形の起伏が描かれ、植生の記号で田畑や森などを示しているので、慣れれば当時の景色が目の前に浮かんできます。皆さんもお住まいの地域の百数十年前の地形図を眺めながら、曾祖父母が目にしたかもしれない新緑の景色などを想像してみてはいかがでしょうか。

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