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「白をめぐる百の思索」(視点・論点)

デザイナー 原 研哉

デザイナーの原研哉です。
今日は、「白をめぐる百の思索」というテーマで話をします。

僕は、白は色ではなくて、白いと感じる感受性であるという風に考えてきました。
詩人の大岡信氏が監修した「日本の色」という本がありますが、
その中で、山本健吉という人が古代日本人の色の感じ方について語っています。
古代の日本人は赤、黒、白、青の4色を感じていた。
これが色の、日本の色の始原だという風に言われています。
赤は燃えるような赤々とした明るさ。黒は夜の闇。白は混濁した混沌の中から何かが著しく立ち現れてくる様相。青は、ぼうっとした茫漠とした印象ですね。
ですから、赤、黒、白、青というのは言葉にすると、明、暗、顕、漠、という風なイメージだったという風に言われています。

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40年ほど前に読んだ本ですけれども、今も時々、反すうされる内容です。
僕はデザイナーという仕事をやっているわけですけれども、この白という色、様相ですね、そういうものに非常に興味を持ってきました。
これは、白が好きとか、侘び好みとか、ミニマル思考ということではありません。
デザインというのは、混沌の中から、はっとするような目覚めや気づきを呼び起こしていく、そんな営み。雑音や情報の海の中から鮮烈なイメージを生成させていくという、そういう営みだと考えています。
つまり「形を成す意志」が立ち上がっていく、ということに通じているわけですね。
ですから事が顕在している状況を表す、「白」というものには大変興味を持って、白を白いと感じる感受性の周辺に目をこらしてみたいと考えた次第です。
今回、「白百」という本を書きました。これは10年前に書いた「白」の続編なんですけれども、昔に書いた「白」という本が、白の概念に対する抽象的な記述だったのに対して、今回の「白百」は、具体的な百の現象を巡っていく、という考え方で書かれたものです。
例えば紙を想像してみてください。
紙というのは印刷メディアとか言われて、少し古い媒体のように言われていますけれども、僕はそれだけではないと思います。
人間にとっては非常に大事な媒質ではないかという風に思うんですね。
紙の本質は白さと張りだと思います。
紙の原料は樹皮ですけれども、樹皮を細かくつき砕いて、水に分散させて、漉き簀(すきす)ですくいあげて、天日で干すと、大変真っ白な、自然界の中で白はそんなにないんですけれど、真っ白なものが手に入った。
指で持つとピンと立つぐらいの、そういう張りのあるものができたわけですね。
この白くて張りのある、つまり汚れやすく壊れやすい物質の上に、人間は墨で黒々と文字や図像を書いたわけです。
取り返しのつかないことを紙の上にしでかすという。
これはほんとにシーンと静まりかえった、満員の観客が入った音楽堂のようなところで、ソリストがバイオリンを抱えてやってきて、最初の1音を奏でるような。
そういう緊張感を人の身近にもたらしてくれるわけですね。
ミスを犯す恐ろしさもありますけれども、上手くできると、その上手くできた実績が未来永劫残っていくというか、そういう風なものとして認識されたわけです。
ですから白い紙の上に発露したくて、色々な人達が様々なことを考えた。
例えば、詩人は紙を目の前にして心を揺らしたかもしれませんし、数学者は白い紙の前に数式を吐き出したかもしれない。作家は推考を重ね、恋人は手紙をしたためたかもしれない、印刷の技術者は素晴らしい文字の列を紙の上に写し取る、ということに心を尽くしたわけです。
ある時には、禊ぎやけじめが白い紙として決然と示され、盆の上に置かれた真っ白い紙は、最高のもてなしの心を人に伝えたわけです。
そのような紙の特性というのは、紙の白さに内包されているように思います。
それから俳句を思い出してください。俳句の中には「切れ」という考え方があります。
俳句というのは基本的に情景描写です。情景に目をこらして、その風景を感じるわけですが、そのあと一呼吸おいて、そこで言葉の流れをいったん切る。
これは、なんとか「や」とか、「かな」とかいう言葉が使われるんですけれども、これを「切れ字」という風に言います。客観的に描写された情景を想起して、しばし沈黙して、その情景を味わい、共有するわけですが、更に深く反すうしようと意識を後戻りさせても、もうそこには何もない。そういう風なことが起こるわけです。
そういう状況が「切れ」と言われているものです。この「切れ」は非常に大事なものだという風に詩人の高橋睦郎氏が僕に教えてくれました。
折口信夫は、この感覚を、「雪を掴む感覚」という風に言っているそうです。
雪を掴んだ。雪を掴んだ感覚は手の中にありありと残っているんだけれども、掌を広げてみるとそこには何もないという感じ、これが表現の極意だと言っているわけですね。つまり、心を感動しているものに対して執着させてはいけない。考えというものを収穫物として蓄積するべきではない。考えや刻印というのは無垢な心についた生々しい模様であって、思いの名残が染みついてとれなくなってしまうのは、よろしくないと。つまり感動は一時のもので、あとは綺麗さっぱりとして心や感受性をまっさらな状態に初期化するという、そういうことが、日本の表現の極意だという風に言っているわけです。
非常に示唆に富んだ考え方ですね。
清まるとか浄化されるとか、そういう風な考え方が白の周辺にはあります。
つまり白というのは、色の不在ではなくて色の飽和の果て。鮮烈な色彩や残像を静めて白へと還元する美意識。そういうものが白の周辺にはあるわけです。

ここで詩を2編ほどご紹介したいと思います。
1つは谷川俊太郎さんの「灰色についての私見」という詩の部分です。
ちょっと読んでみます。

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「どんなに白い白も、ほんとうの白であったためしはない。
一点の翳もない白の中に、目に見えぬ微少な黒がかくれていて、それは常に白の構造そのものである白は黒を敵視せぬどころか、むしろ白は白ゆえに黒を生み、黒をはぐくむと理解される。存在のその瞬間から白はすでに黒へと生き始めているのだ。」

この詩は後編がありまして、その後編は「どんなに黒い黒も本当の黒であったためしはない。」という風に言うんですね。とても面白いと思います。
こういう概念が、頭の中のスクリーンに立ち現れてくる様相も、僕は白いという風に感じます。
最後にもう1つの詩、北園克衛さんの「単調な空間」の部分です。

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「白い四角 
のなか 
の白い四角
のなか 
の白い四角 
のなか 
の白い四角 
のなか 
の白い四角」
頭の中の四角はどんどん更新されて、更に白の度合いを増していくように思います。
このように白というのは、白を巡っては非常にたくさんのことがあるわけです。
こういうものに、たまには目をとめて、日本の美意識の背景について考えてみたらいかがでしょうか。

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