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「和食の感性」(視点・論点)

料理研究家 土井 善晴

 日頃、私たちはレシピを見ながら料理することがあります。例えば、「いんげん豆の胡麻和え」、レシピには、『いんげん豆は筋を取り、熱湯に塩を入れて2〜3分茹でて、冷水にとる。冷めればザルにあげ、水分を軽くふき取る。』とあります。いかがですか、この通りに作っておいしく作れますか。多くのレシピには、このように、茹で時間2〜3分と大まかに記されています。でも、この数字通りではありません。「そんなことあたりまえだ」と思われる方はちゃんと分かっている方です。うまくできないのは、いんげん豆はいつも同じではないからです。現実の茹で時間は、ものによって2分から5分くらいの幅があるのです。では、おいしく茹でるためには、どうすれば良いか。それは、まず、「おいしく茹でよう」と思うことです。おいしく茹でようと思わないかぎり、おいしくは茹でられません。そのためには、五感をフル活用して、心を凝らし、集中して茹でるのです。

たとえ、昨日うまくいったからといって、今日もうまくいくとは限りません。だれもが経験することです。「茹でるなんて簡単なこと」と思う人は、おいしく茹でられないのです。「豆を茹でるのは難しい、簡単ではない」と知っている人だけが、おいしく茹でられるのです。
私が豆を茹でるなら、目を見開いて豆の色の変化に注意して、「どうかな」って思えば、指で触って固さを確かめ、「そろそろかな」と実際に少し食べて、ここぞ、というタイミングでパッと水に取るのです。手にとって、「きれいだなあ」と感じる時、カーテンを引いて春の光が差し込むように、パッと気持ちが明るくなって、とてもうれしいのです。それは、いつもうまく茹でられるとは限らないとわかっているから、毎日同じことでもうれしいのです。

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 できることならレシピには、「豆は一生懸命茹でる」と、書きたいと思っているのです。
和食は通常、名前はありません。今では、変わってしまったところもあるかもしれませんが、日常の家庭料理では、おりおりの食材と調理法を組み合わせるだけです。 私の生まれた関西では、「切り干し炊いといて」「いわし焼くのん、煮つけたほうがいい?」と台所から聞こえてきます。家族が帰ってきたら、「おつゆといわし、あるよ」こんな具合です。家庭料理では素材ありきで、調理法はたいていきまっているのです。ですから、大名をもてなした古い献立には、素材の名前が並んでいるだけです。
 「素材を活かす」は和食の極意です。ですから、和食では調理法や調味料が素材の持ち味を殺すことになってはいけません。それは豊かな自然に寄り添うように暮らしてきた人々の 「思い」です。豊かな恵みを与えてくれる自然に感謝する心は、調理法だけでなく、食事の形や振る舞い方として、現代の私たちの本質のなかに残されていると思います。
近年「料理はクリエイティブである」と思われているようです。現代社会では、創造性や独創性が重要視されています。しかし、そのような考え方は、そもそも西洋の人間重視の文化から生まれたものです。かつて和食の工夫とはなにか、創造はあるのかと疑問を持った私は、敬愛する科学者 清水博先生に尋ねたことがあります。清水先生によると、 西洋のそれは、「人間存在の創造的進化」であり、日本においては、「人間存在の創造的深化」であるというのです。進む「進化」と深める「深化」では、全く意味が違うのです。和食では、一つの料理を深めることが創造だと学んだのです。
 同じいんげん豆でも、初物と、盛り物、また、今年もこれで食べおさめやなあ、という、名残り物では、料理する人の気持ちは違うでしょう。そこで、どう茹でるのかを考えることが深化です。
 そのように深く考えることは、日常の忙しさの中では、とうていできないことかもしれません。しかし、理想の日本料理であれば、その違いこそが大事なのです。懐石料理では、一回の茶事の間に、ご飯が三度供されます。
 まず、はじめに、米にようやく火のはいった生まれたてのご飯、それは清らかな水の味がするのです。次にいただくよく熟んだご飯は、ほこほこの湯気とともに匂うようなご飯のおいしさです。最後に、お釜のおこげを湯炊きしたご飯が供されてけじめとなります。それはまるで、ご飯の一生を味わい尽くすようです。それも、おかずをのせたりせず、純粋にご飯だけを集中して味わうことで、「ご飯ってこんなに美味しかったんやなあ」と感激さえするのです。

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 こういった物事を深める発想は、日常の暮らしの中にもありました。春 気温が上がると、祖母はそれまで輪切りにしていた大根漬けを、繊維に沿って細切りにするのです。そういったふとした思いつきもまた深化でしょう。日々同じことの繰り返しの中に、自然の中に小さな変化を見つけて、いつものことに少し変化をつける。その工夫に気がついて、もの喜びする人、そういう人々に出会うことで、こちらまで嬉しくなるのです。
 そう考えてみますと、私たちは、変化するもの、時間の中で移ろうものに、極めて敏感なように思うのです。蕎麦なら、挽きたて、打ちたて、茹で立てにこだわることも、その一つでしょう。私たちは、いまだに湯気の立ち上るご飯にあこがれ。桜は散り際を尊ぶのです。
 方丈記の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたの、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中の人と栖と、またかくの如し。」
 日本の美意識は、生まれたての「きよらかなもの」という時間の始まり、また「ほろびやすきもの」という時間の終わりに、またその道中に、とどまらぬところに向かうのです。「和食の感性」とは、時間を止めて大いに楽しむハレの日のご馳走ではなく、ケの日常に流れる時間を、深く見つめるところによく現れるように思います。 毎日の暮らしにある味噌や漬物は生き物ですから、常に変化し、時々のおいしさを作っているのです。変わりながらも、それはいつもおいしいものなのです。
 民藝の提唱者の一人である陶芸家 河井寛次郎が、日常のものを選ぶ心得を説いた、四つのキーワードがあります。それは、「誠実、健全、簡素、自由」です。最後に「自由」を加えたところが、河井寛次郎らしさでしょうか。強制も拘束もなく、心のおもむくままに仕事する時間に喜びはあるのです。
 豆を茹でるとき、自分の思い通りに、自由に茹でてみてください。そのとき豆を思って、「どうかな」と想像してみる。豆と自分の対話です。「どうかな」っていうその瞬間に心は動いているのです。「どうかな、もういいかな、だいじょうぶかな」と相手を思うことは、心を働かせることなのです。お料理に失敗などありません。まず、おいしく茹でようと思うことが、面白いのです。春は芽吹きの季節、ただ茹でるだけで、いろんな緑と出会えます。淡い緑、黄みをおびた緑、同じものはありません。
 どうぞ、お料理の時には、「心」というだれもが持っている万能のセンサーを使ってください。こんな便利なもの他にありません。「使わな損損」と思っています。


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