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「子規の明治」(視点・論点)

俳人 長谷川 櫂

 明治になってから今年で百五十年になります。俳句の世界で「明治」といえば正岡子規を思い浮かべますが、子規が生きた明治とはどのような時代だったのか、考えてみたいと思います。

明治時代の大きな特徴は、それが強烈な国家主義の時代だったことです。現代人は明治時代の日本人も今と同じ考え方をしていたと、何となく思っているのですが、それでは明治という時代、そこに生きていた日本人が見えてきません。
 では明治はどんな時代だったのか。江戸幕府は幕末、それまで二百年以上つづいた鎖国政策をやめて開国します。それはヨーロッパやアメリカの「列強」と呼ばれる大国が、世界に植民地を求めて争う帝国主義の時代の真っ只中でした。東アジアの大国中国は、アヘン戦争でイギリスに敗れて半植民地になっていました。小さな島国である日本も、一つ間違えば列強の植民地にされかねない危機的な状態でした。

 そこで明治維新の指導者たちは、日本が列強の植民地とならないよう、天皇から庶民にいたるまですべての国民が国のために働く、という国家主義を新しい日本の大方針として掲げたのです。
 元号が明治と改まる年、明治天皇は施政方針「五箇条の御誓文」を発表します。そこには「官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス」とあります。

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これは公家や武家から庶民に至るまで、国民全員が能力を発揮して志をとげよう、ということです。戦後の個人主義では、個人の能力は一人一人の欲望実現のためにあるのですが、「五箇条の御誓文」の「各其志ヲ遂ゲ」とは、国民全員がその持ち場で能力を最大限に発揮して、日本を列強のような強い国にしようという国家主義の宣言でした。

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 正岡子規は明治元年の前年に四国の松山で生まれました。子規の年齢は明治の年数と同じで、子規は明治という時代とともに、国家主義の空気を全身に浴びて成長しました。
 明治の大人は、子どもが新国家建設に役立つ「有為の人」になることを願い、明治の子どもは「有為の人」になろうとしました。「末は博士か大臣か」という言葉も残っていますが、明治の国家主義を庶民の側から眺めると、それは立身出世ということでした。
 子規は少年時代、政治家になって出世し、国を動かすことを夢に見ました。しかし子規が生まれた松山藩は明治維新の賊軍であり、薩摩・長州の藩閥政府の中では出世の道は閉ざされています。しかも子規は病弱だったので、政治家になって志を果たす時間の余裕がありませんでした。
 そこで子規は政治家になることを断念し、文学者になろうと決意します。これも現代人が小説家や詩人になるのとは違って、政治の世界でやろうとした仕事を文学でやろうとしたのです。
 子規が新聞記者になるのも、結核にかかっていたのに日清戦争に従軍にするのも、政治家としての志を文筆で果たそうとしたからです。このように子規の行動は、明治の国家主義を背景にして、はじめてその意味が鮮やかに浮かび上がります。
 子規の業績の一つとして、「写生」という近代大衆文学の方法を提唱したことがあげられます。子規はこの写生をまず俳句で唱え、次に文章と短歌に応用してゆくのですが、そもそも子規が写生という方法を思いついたきっかけは、西洋絵画のデッサンでした。
 西洋絵画にはデッサンという方法があって、人物でも風景でも静物でも絵筆で描けば一枚の絵ができあがる。それならば俳句でも対象を言葉で描けば一句ができるはずだ、子規はそう考えました。
 絵筆と言葉を同じに考えていいのか、という疑問がすぐ湧き起こりますが、疑問を無視してやってしまうのが子規の無邪気さであり、明治の無邪気さでもありました。
 さてここで大事なのは、子規が西洋絵画を手本に写生を考え出したという点です。明治政府は日本を西洋の列強諸国に太刀打ちできる国にするために、西洋文明を日本に移植する、いわゆる西洋化の方針をとっていました。
 それを明治時代の言葉で「文明開化」といいます。文明開化とは平たくいえば西洋の真似をすることでした。子規の提唱した写生が西洋絵画の真似だったことは、明治政府の西洋化の方針と一致していたわけです。
 晩年、子規は新聞に「歌よみに与ふる書」を発表して短歌の革新にとりかかります。そのなかに「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にて有之候」という一節があります。
 子規が名指ししている「古今集」は平安時代のはじめ、紀貫之らによって選ばれた和歌の聖典です。子規は新聞でその選者の貫之を「下手な歌よみ」とののしり、「古今集」を「くだらぬ集」とこき下ろしたのです。政治家のアジ演説そっくりです。
 こうして「古今集」をおとしめる一方で、子規は奈良時代に作られた「万葉集」を絶賛します。ではなぜ子規は「古今集」をけなして「万葉集」をほめたのか。これもまた明治政府の方針と関係があります。
 明治政府は天皇中心の強力な集権国家を目指したのですが、モデルにしたのはまずイギリスやドイツのようなヨーロッパの君主国でした。それだけでなく昔の日本にも新国家のモデルを求めようとしました。
 ところが日本史を振り返っても、平安時代は摂関家の藤原氏が政治を独占し、鎌倉時代以降は、武家の幕府が政治を取り仕切ってきました。つまり日本の歴史には天皇親政の時代などほとんどないのです。
 唯一、天皇が親政を行ったのが奈良時代でした。そこで明治政府は奈良時代を天皇親政の理想に掲げます。子規が平安時代の「古今集」をけなし、奈良時代の「万葉集」を褒めたのは明治政府の平安軽視、奈良賛美に添っているわけです。
 このように子規の仕事は、明治政府の方針の文学への応用という側面をもっていました。それは天皇から庶民まで、すべての日本人は新しい国のために役立つ「有為の人」でなければならない、そうしなければこの小さな島国は西洋列強の植民地になってしまう、という国家主義的な危機感が、いかに強く明治という時代をおおっていたかということです。
 NHKのテレビドラマにもなった司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、前半は子規や秋山兄弟を描く青春群像小説です。ところが、明治三十四年の子規の死を境にして後半は日露戦争を描くキナ臭い戦争小説に変わります。なぜそうなるのか。
そして、日露戦争後、日本は徐々に昭和の戦争という破滅に向かって進んでゆきます。その理由をめぐって、日露戦争を境に日本人が好戦的な民族に変わってしまったという考え方もあります。
 しかし今日みてきたように、それは明治という時代が誕生したときから孕んでいた国家主義が、しだいに牙をむき出してきたのではないでしょうか。「国のために生きる」という明治の国家主義が、いつの間にか「国のために死ぬ」という昭和の国粋主義に変わってしまった。
 その国粋主義がもたらした破局の末、戦後の日本人は明治の国家主義に代わるどんな理想を獲得したのか、あるいは何も手に入れなかったのか。
日本人の理想が、この百五十年間にどう変わったのか、明治百五十年の今年はそれを考える絶好の機会です。


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