NHK 解説委員室

解説アーカイブス これまでの解説記事

「キャリア権とは何か」(視点・論点)

法政大学名誉 教授 諏訪 康雄

近年、キャリアという言葉がよく使われるようになりました。これを「社会のなかで仕事につくことを含めた人生」というほどの意味で理解しておきますと、現在、関心が高まっている「働き方改革」の背後には、人びとのキャリアが大きな転換点に来ているという「現実」があると思われます。
言うまでもありませんが、私たちのキャリアは、時代環境のなか、学校生活で理論的・体系的に学ぶものと、社会生活で経験をとおして実践的・具体的に学ぶものとの双方により、形づくられます。
こうしたキャリアの構造や機能は、心理学、社会学、経済学などの学問では、それぞれに研究されてきました。しかし、法律学では、キャリアという視点から正面切って論じられることは、これまであまりありませんでした。
ようやく近年になって、職業をめぐるキャリアの構造や機能を、法的にも位置づけようとする研究や法制化が、進みつつあります。これを少し紹介させていただきます。

広い意味でのキャリアは、ライフつまり人生そのものです。これを人生キャリアとでも呼んでおきましょう。それに対してワーク、つまり仕事や職業は、その一定部分を占める、狭い意味でのキャリアです。こちらは、便宜的に職業キャリアと呼んでおくことにします。

s180207_01.jpg

そうしますと、両方を含めたキャリアのイメージ図は、このようなものとなります。
当然、人により職業キャリアが占める位置も、大きさも、違っています。
キャリアの尊重やキャリアの支援という場合、広い意味でのキャリアと狭い意味でのキャリアの、どちらを指すのかは、時と場合によって、変わってきます。

通常、キャリアを法の世界に位置づけようとする場合、広い意味での人生キャリアをまず考え、その次に狭い意味での職業キャリアに焦点をあてることになります。

s180207_02.jpg

キャリアは、憲法のあちこちに関連規定があります。主なものを、憲法の条文の順番に揚げますと、個人の尊重・幸福追求権、職業選択の自由、生存権、教育を受ける権利、勤労の権利と義務などです。このうち、職業選択の自由と勤労の権利と義務すなわち労働権・労働義務が、職業キャリアに直接かかわっています。
要するに憲法は、「キャリア権」という形ではキャリアに直接の言及をしていませんが、すでに人生キャリアにも職業キャリアにも、その基礎となる諸規定を用意してきました。

s180207_03.jpg

これをキャリア展開の視点から整理し、概念図にしてみますと、このようになるでしょう。
まず生存権が根底にあって、個人の尊重、幸福追求権が保障され、教育を受ける権利(学習権)によりそれらの具体化へとつながっていきます。ここまでは、他の基本的人権規定とあいまって、広い意味のキャリアである人生キャリアを基礎づけます。
その先に、職業選択の自由と労働権がきます。これにより、狭い意味のキャリアである職業キャリアの展開がより具体的に基礎づけられます。
こうして絞り込んでいったときの職業キャリアをめぐる権利、すなわち、略してキャリア権は、個人としての尊重がなされ、教育を受け、職業を選択し、就業し、キャリアを展開していくという一連の流れを、理念として支える法的な基礎概念になります。

s180207_04.jpg

キャリア権をやや詳しく定義すれば、《人びとが意欲、能力、適性に応じて、希望する仕事を準備、選択、展開することにより、職業生活をつうじて幸福を追求する権利》となるでしょう。ちょっと長すぎるので、簡単にいうと、《職業生活をつうじて幸福を追求する権利》なのです。
これにより、学校がキャリア教育を行うのは、個々人がもつキャリア権を実体化させるための支援であり、仕事の選択や展開などについて様々な法規制があるのも、個々人がもつキャリア権を尊重する側面がある、と統一的に理解することができるようになります。
キャリア権の理念は、平成13年に改正された雇用対策法や職業能力開発促進法に影響を与えた、といわれています。職業キャリアは「職業生活」という法令用語に置き換えられ、キャリア・デザインは「職業生活設計」と堅苦しい名称になっていますが、掲げられている職業生活の全期間にわたっての職業の安定、能力の有効発揮などといった理念は、まさにキャリア権の発想と重なるものです。
また、平成27年の職業能力開発促進法の改正により、職業生活設計を行い、それに沿った能力開発をすることが労働者の努力義務となり、その促進をすることが事業主の義務と明記されました。国には、それらをめぐる国民への教育の推進が求められてもいます。キャリアをめぐる専門職である、キャリアコンサルタントを法律上、きちんと位置づける条文も入りました。このようにキャリア権は、たんなる憲法上の理念として再構成できるだけでなく、実際の法令のなかにも少しずつ姿を見せはじめています。平成27年の女性の職業生活における活躍の推進に関する法律、略称、女性活躍推進法では、条文のなかだけでなく、法律のタイトルにも「職業生活」つまりキャリアという言葉が入りました。

数えてみると、今や49法令のなかに「職業生活」という用語が見られます。個人がもつキャリア権を尊重し、これに配慮し、その円滑な形成と展開を支援しようとする、新たな働き方の流れは、法の世界でも徐々に根を張りだした、といってよいでしょう。
また、近年では、キャリアまたは職業生活に言及することで、職業キャリアへの配慮を求める裁判例も、見られるようになりました。
少子高齢化との関係では、通年で働く給与所得者に、45歳以上の人が占める割合が半分となり、そのキャリアへの配慮と中高年の活躍推進が、重要な社会的課題となっています。
従来からの慣行や思い込みにとらわれず、人工知能=AIやロボットなどの技術革新と社会変化などに、個人も組織も、前向きに対応し、社会の活力を維持する方向が望まれている現在、働く人びとのキャリア権に配慮することで、キャリアの法的基盤をより整備し、できるかぎりその実現を進めていくことが求められている、と考えております。
その意味では、大きな転換点にある、働く人びとのキャリアをめぐっては、学校、職場、社会をとおして一貫した理解と対応を促進する必要があります。個々人のキャリア意識の啓発はもちろん欠かせません。ですが、それ以上に、私たちをとりまく社会環境の整備の影響は大きいです。キャリア法学やキャリア基本法のような、法や政策、制度や慣行などの再編成が必要な時点に差しかかっていると思われます。

キーワード

関連記事