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「分かち書きの美学」(視点・論点)

書家 石川 九楊

多くの日本人が好む構図というものがあります。
その代表が「分かち書き」「斜めの美学」とでもいうものです。

尾形光琳の「紅白梅図屏風」はその代表的な作品です。
右下にまっすぐに枝を伸ばした紅梅の若木があり、左やや上に、枝を折り曲げ、風雪に耐えた白梅の老木があります。その両者の間を右上から左下へ、水紋の印象的な川が流れています。見慣れている我々は不思議と思うことはありませんが、よくよく考えてみると、変が言い方ですが大きな小川を挟んで右下に紅梅、左上に白梅を配すると言うのは、とてもシュールな構図です。ここには隠された意味が描かれているに違いありません。
現代の俳人。恩田侑布子さんに「白梅の老樹即ち男ぶり」という句があります。
この句はこの図にぴったりあてはまります。これにならえば、右下はいわば「紅梅の若木即ち女振り」ということになります。
漢字と男手、ひらがなを女手と呼ぶ東アジア漢字文明圏では、男と女という言葉は特別な意味を重ねています。
漢字の本家、大陸中央を「男」、漢字文明圏内にある地方を「女」にたとえたのです。
たとえば、平安時代の土佐日記の「男もすなる日記といふものを 女もしてみむとてするなり」は、これまで言われてきたように、男である紀貫之が女のふりをして書いたのではありません。ここでの男は男手、つまり漢字。女は女手つまりひらがなの事です。国語学の小松英雄さんは「女もしてみむとて」の表現に「女もし」、つまり「女もじ」隠れていることを指摘しています。漢文で書く日記を新しくできた、ひらがなでうまくいくかどうか、やってみよう、という意味です。それゆえ土佐日記の終わりは「忘れがたく口惜しきこと多かれど え尽くさず とまれかうまれ とく破りてむ」と締めくくられています。

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ひらがな文では、うまく書ききれなかった。何はともあれ、早く破りすててしまおう、と書いているのです。むろんこうは書いても、うまくいったと思ったからこそ、破りすてることなく、今日まで伝わっています。
和菓子の包装紙の図柄、あるいは床の間の違い棚、いたるところに「斜めの美学」は今なお生き続けています。
この「紅白梅図」の原形は、今から千年前、十一世紀の平安時代の「寸松庵色紙」にまでさかのぼります。
歌の作者「すがはらのあそん」に始まり、「秋かせのふき、あけにたて、るしら、きく、は」と、行の頭の文字を下げながら古今和歌の上の句を書き、ついで、広く間を開けて、左上方に「花かあら、ぬかなみの、よするか」と下の句を行頭、行末を下げながら配置しています。
行頭、行末が揃うわけでもないのに、不均衡の均衡とでも呼ぶべき整然とした安定感が見るものに伝わってきます。
この「寸松庵色紙」の「分かち書き」の構図こそは、いわゆる「斜めの美学」の原典、「紅白梅図」のモデルです。上の句と下の句の間の「間」は紅白梅図の川に相当します。
中国文にせよ、英文にせよ、行頭から行末まで書き継ぎ、改行後は前行と同じ高さ、ないし同じ位置まで戻るのが基本です。ところが日本語は高校野球で勝利した高校の校歌の歌詞でさえ、行頭を上げ下げしてテレビ画面に登場します。
文字を散らすように書くことから、これを「散らし書き」と言いますが、その「散らし書き」の極限に「分かち書き」が誕生しています。

ところで昨年、私は「日本論」という本を書きました。明治以来、様々な日本の特質が語られてきましたが、本当のところ、いったいどうなのだろう、と考えたのです。
日本語は単一の言語ではありません。漢字語とひらがな語、これに加えて言葉としては不十分なカタカナ語の三つの言語の混じりあった統一性のない言語を日本語といっているのです。
代表的な日本論として、今なお読まれている新渡戸稲造の「武士道」や禅の鈴木大拙の日本的霊性」は漢字語に根拠を置いた日本論です。これとは異なり、美学者、中井正一の「日本の美」や哲学者、九鬼周造の「いきの構造」はひらがな語に根拠を置いたもので内容はまったく違っています。

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漢字語の鈴木大拙が、「古今和歌集」や「源氏物語」で日本精神が代表されては情けない、とまで、ひらがな語文化を軽視するように、いずれも一面的な主張にとどまります。漢字とひらがなの二つに分裂した言語を同時に持ち、その間を、やすやすと行きつ戻りつしながら、言語生活を送っている。このことこそが、日本語の、日本文化の、日本人の特質と言えるのです。

先日、喫茶店で「ハーブティーに熱湯を」と頼んだところ、「熱いお湯ですか」と聞き直されました。日本語では漢字語の「熱湯」とひらがな語の「熱いお湯」の間を行き来しながら言葉は発せられていくのです。
「寸松庵色紙」や「紅白梅図」の構図を、異様とも思わず、安心、安堵、安定感を抱くのは、この構図が日本語の構図そのものだからではないでしょうか。
日本語の漢字語とひらがな語はこの「分かち書き」のような構図で棲み分けている、というのが、私が手に入れた結論でした。

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字を書く右手の位置近くにあって、方位で言えば、右つまり東方に四季と恋愛の表現を得手とするひらがな語がある。左上方、つまり敬意を払うべき西の位置に、政治と宗教と哲学の表現を得意とする漢字語がある。その間には、水とも川とも海とも霧とも雲とも見なせるような空隙(すきま)が大きく口をあけている。かつて小説家の野坂昭如が「男と女の間には暗くて深い川がある」と歌いましたが、男手、漢字語と女手、ひらがな語の間には、大きな亀裂、隙間が横たわっています。
日本語には、斜め上のほうに、政治、宗教、哲学の表現を担う言語があります。
かつてはそれが漢字語つまり漢語・漢詩・漢文でした。しかし明治時代以降は、西欧語を漢字語化してここに埋めこむ作業が進行しました。これに伴って東アジア的政治理念と体制を残したまま、不十分に民主制が語られることになったのです。近年漢字語への翻訳を怠るようになってからは、アメリカ発のカタカナ語が強制的にここに住み着くようになりました。
これが大まかな日本語の姿です。
「分かち書きの」美学。それは漢和二重複合語の日本語が育て上げた固有の美学です。それは、他には見かけられないため、それを知らぬ人々からは好奇の目で見られます。
しかし、それは世界に冠たる、というような事ではありません。
世界は垂直と水平、左右対称を軸とする、均等と均衡の美学で成り立っています。「斜めの美学」に安住することなく、均等と均衡、つまり平等と公平の美学を重ね合わせることがなければ、「分かち書き」の美学は、東海のふしぎの国の、ふしぎな自己満足の美学に終わることになります。

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