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「シリーズ・幼児教育無償化を考える① 総合的な幼児教育重視策を」(視点・論点)

白梅学園大学 学長 汐見 稔幸
 
政府は、幼稚園、保育所、認定こども園に通う3歳以上の保育料を無償化することを決めました。教育にかけるお金は、義務教育が原則無償でおこなわれているように、できれば無償である方が親の負担がなくていいとは言えるでしょう。無償化政策は一般的には歓迎すべきことと言えます。
 しかし、保育や幼児教育の世界全体を眺めたとき、今回の無償化政策にはいくつか問題が見えてきます。今日はそれを大きく2つの角度から見てみたいと思います。

一つは、保育・幼児教育の世界には、課題となっていることがたくさんあり、そのなかで保育料の無償化はその一つの課題にすぎないということです。
今ヨーロッパ諸国は、21世紀社会をにらんで、教育に大きな力を割きはじめています。とくに保育・幼児教育の質を上げることがすぐれた人材を養成する上で大事であることが分かってきたことが重要な背景になっています。そのため、各国とも「幼児教育重視策」を掲げ、その質を上げるために総合的な施策を進めています。
たとえば、保育者一人あたりの子ども持ち数を15人以下にするなどの保育条件の改善、保育者の給与を小学校教師と同一にするなどの待遇改善、女性の保育者だけでは子どもも経験する文化が偏りますので男性保育者を全体の2割以上にする等の増員、保育・幼児教育への公費支出を各国GDP比で1%以上にするなどの公費負担の増額、保育の改善のためのシステムの構築、研修の重視等々、ともかく総合的です。そうした施策のために多くの公費が費やされ、その一環として保育料の無償化が図られています。今、多くの国で3歳以上の保育料が無償になってきています。無償化は、こうした幼児教育重視策に有機的に組み込まれた施策になっているのです。

翻ってわが国はどうでしょう。こうした幼児教育重視策をめぐる議論がまだまだ不十分といわざるを得ません。
たとえば、わが国には多くの幼稚園、保育所、認定こども園がありますが、その保育の質はまさにピンキリで、20世紀のある時期には通じたかも知れませんが、現代の子どもたちには有効とは思えない保育をしているところも多く存在しています。
こうした園にたいする正しい意味でのアドバイス体制が必要なのですが、残念ながらまだ保育理論に基づくきちんとした指導体制はつくられていません。研修をきちんと受けるシステムも一部を除いてきわめて不十分です。公的な乳幼児教育研究所のようなところもまだあまりありません。ここにはぜひ財源を割いていただきたいと思います。

先生方一人ひとりの子どもの持ち数はどうでしょう。現在幼稚園は先生一人あたり30人ないしは35人の子どもを受け持っています。保育所は4,5歳児は一人あたり30人、3歳児は20人ですが、いずれのヨーロッパ各国に比べてかなり厳しい条件になっています。
ヨーロッパ各国は先ほど申し上げたように一人あたり15人以下が標準で、多くの国で実現してきています。先年、日本で行われた幼児教育をめぐる国際会議で、日本では先生一人あたり30人ないしは35人を受け持っているといったとき、参加していた外国の研究者たちからどよめきが起こったことがありました。
日本は教育熱心な国と聞いていたのに、どうして幼児教育はそうではないのかという疑問が次々と出されました。実際、一人の先生で30人もの子どもを保育すると、細かな把握、サポートは不可能になるといって間違いありません。先生方の保育の質のアップのためにこの面での条件を改善することは不可欠の課題と言えるでしょう。ここにも大きな財源が必要です。

さらに日本の保育所はかなりの長時間開所を強いられているという現実があります。その背景には世界で最も長時間働いているといわれる長時間労働社会問題があります。そのため父親が育児にかかわる時間は先進各国の三分の一程度で、日々家庭で団らんやくつろぎの時間を持つことはとくに都市部では困難です。これは子どもの育ちにも、親のメンタルヘルスにもマイナスの影響を与えています。
ちなみに、わたしの子どもの一人はドイツにいて、現地の保育園に二人の子どもを預けて生活していますが、この保育園の閉園時間は夕方の4時半です。ほとんどの父親は夕方4時までには仕事を終えて家庭に向かいます。家庭でゆったりとした団らんが毎日保障されているのです。
もし日本でもこうした環境をつくろうと思えば、幼い子どもを育てている父親は週に3日以上の残業はしてはならないというような法律を作り、実際にそれに挑む企業に国として援助するというような仕組みが必要でしょう。ここでもそれなりに財源が必要です。
以上に限らず、多くを抱えた待機児問題をどう解決していくのかという、深刻な問題があります。ここにも相当の財源が必要です。

保育料の無償化という施策は、こうした乳幼児教育全体の底上げ、質の改善、課題の解決という総合的な施策に中にきちんと位置づけられて議論するべきでしょう。当然優先順位ということが問題になります。無償化が問題だといっているわけではありません。ただ、こうした施策全体が進まないまま、無償化だけが一人歩きしても日本の子育て環境がよくなるわけではない、ということはよく知っておきたいことです。総合的な議論が是非とも必要です。

もう一つの問題は、無償化を無認可施設も含んで一律に実施すると、新たな不公平が生じるという問題です。現在、新制度のもとでは、幼稚園も保育所も、保護者の収入に応じた保育料が設定されています。仮に収入が少ない家庭だと、保育料も安く設定されていますから、年間払う保育料は10万円以下程度になります。しかし、収入の多い家庭ですと、保育料も高く設定されていますので、年間数十万円の保育料を払っています。これらがすべて同じように無償になると、収入の少ない家庭では年10万円弱の援助を受け、収入の多い家庭は年数十万円の援助を受ける計算になります。この限り、収入の多い家庭の方が多くの援助を受けるという、公平性の原理に背馳する施策になってしまうという問題です。
本当は、本当に保育料負担がたいへんな家庭、認可外の保育施設に預けざるを得ないため多額の保育料を負担している家庭など、きちんと精査して、その上で、公平性の原理に背かない無償化施策が検討されなければならないのだと思います。今回は、そうした議論がおこなわれたということも聞こえてきませんので、当然、主旨は分かっても、やり方に懐疑的になる人が多く出てくることは避けられないでしょう。

以上、保育料の無償化という、それ自体は積極的意味を持っている施策が、総合的な施策を欠いているために、いろいろな課題を持ってしまっているということを見てきました。
私としては何割かを保育の質のアップに使うというような施策の転換と、より公平な分配を期待したいと思います。

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