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「9秒台の未来へ」(視点・論点)

スポーツコメンテーター 為末 大

今年9月9日、東洋大学の桐生祥秀選手が、日本学生対校選手権の陸上男子100メートル決勝で、日本人初となる9秒台を公式に記録しました。記録は9秒98。10秒の壁がついに破られました。
私がこのニュースを最初に聞いたのは地方で講演をする前だったのですが、9秒台に気をとられて講演に集中するのが大変だったのを覚えています。この大記録の背景、意味と未来の日本陸上についてお話したいと思います。

まずは、そのレースをもう1度見てみましょう。
3レーンを走りますのが桐生選手のライバル多田選手、5レーンが桐生選手になります。前半を飛ばす多田選手を目標にすることができ、桐生選手にとっては、とても良いレーンの配置になったのではないかと思います。
最初の掲示は9秒99と出ましたが、正式掲示が9秒98となり、日本人が始めて100メートルで9秒台を出した瞬間になりました。

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このレースでは追い風が1.8メートル吹いています。2メートル超えますと陸上競技では公認記録にされませんので、風としても素晴らしい条件でした。
また、学生対校選手権は、全国大会とはいえ日本選手権のような代表を決める大会ではなく、リラックスして走れたことも影響したのではないでしょうか。
さて、もう少しこのレースの詳細を話していきたいと思います。

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まずはこのグラフをご覧下さい。このグラフは学生対校選手権の決勝と今年の日本選手権の決勝を比較したものになります。秒速で11.6m以上出すことが9秒台の条件を言われていますが、このレースでは見事に11.67mというスピードをマークしています。比較しまして日本選手権は11.21mしか出ていません。また最高速度が出る地点というのが短距離ではとても重要視されますが、日本選手権では55メートル地点で出現していますが、学生選手権では65メートル地点で出現をしています。最高速度到達が早い地点に訪れるとその後ゴールまでの速度低下も大きくなります。100mではどんな選手でも必ず最後に速度が落ちます。より早いタイムを求めるためには100m選手はなるべく後半で最高速度を出し、速度低下を抑えようとします。
100メートルでは、最高速を高めていくために鍛えるという考え方ではなく、最高速を出す上でそれを阻害している要因を省いていくという考え方をします。
桐生選手ほどのレベルになると、最高速度の時にはまるで自転車で思い切りペダルを回しているような状態になります。上手くタイミングが取れないとペダルに足がついていかなくて、力がまったく伝わらないというような状態が出てきます。100メートルでも同じように最高速度周辺では足が空回りして地面に力が伝わらないということがよく現れます。桐生選手は、これまでどうしても力んでしまい地面に力を伝えられないという癖がありましたが、この時にはリラックスして最後まで力を伝えていけました。それが加速を長くして65メートル地点までスピードを出していけたということの要因ではないかと思います。
桐生選手は今年、広島でのレースで10秒04というタイムを出しています。この時には向かい風0.3メートルの中で走っています。陸上では風1mにつき0.1秒影響を受けると考えますから、もし今回のような1.8mの風が吹いていれば9秒8台が出ていた可能性があります。今回のレースより前に既にそれだけのスピードで走っていた実績がありました。
ですから、今回ようやく10秒を切ったというレベルではなくここ1、2年は9秒9台中盤、または9秒8台も想定できるようなレベルに既にいたということが言えるのではないかと思います。
1998年、バンコクアジア大会で10秒00が伊東浩司選手によってマークされましたが、それからこの9秒台が出るまで20年近くかかっています。なぜこれほど時間がかかったのでしょうか。1つには、選手が9秒台を目的にしすぎてしまったところがあるのではないかと思います。100メートル9秒台というのは、陸上競技の中で最も大きな目標となっています。当然日本人初の100メートル9秒台を誰が出すのかということがこれまで注目されてきましたので、その9秒台に近づくとどうしても選手達は力んでしまい上手く走れないということがあったのではないかと思います。
ロバート・ザイアンスという研究者の方が行ったゴキブリを使った実験があります。直線を走るゴキブリに対し、1匹で走ることと、たくさんのゴキブリが周りにいるという条件を2つで比較しました。タイムを計ったところ、たくさんのゴキブリがいる前、つまりたくさんの観客がいるところのほうがパフォーマンスが高かったということがわかりました。ところが、このレース、コーナーを幾つか作り、複雑なレースにすると観客が多いほうがパフォーマンスが低いという結果になりました。
このように私達は、かなり本能に近いレベルで周辺の環境の影響を受けるということがわかっています。どうしても9秒が出るレースとなると観客が増え、皆が9秒台に期待する中で、選手がいつも通りのパフォーマンスをするというのが難しかったのではないかと思います。

今回のレースは、観客はたくさんいましたが、世界選手権が終わり、比較的リラックスした中で、レースを走れたことが、結果が出た大きな要因だったのではないかと思います。
今後は、たくさんの観客がいて、かつプレッシャーもある中で9秒台を出すということが課題になっていくと思います。レースが終わったあと、桐生選手自身がインタビューで「速いことと強いことというのは違う」という風に話をしています。桐生選手は日本選手権をこの3年間、優勝できないでいます。どうしてもレースの中盤で、癖である後傾、力みがある中で上手く走れないということが起きてきました。恐らく桐生選手の次の目標というのは、日本選手権のような大きな大会、世界選手権、またオリンピックのような舞台で今回と同じパフォーマンスをすることなのではないでしょうか。
もし桐生選手が世界大会で9秒台をマークすると日本人初の100m決勝進出も夢ではなくなります。また桐生選手だけではなく多田選手、ケンブリッジ選手、山縣選手、サニブラウン選手など、今、日本の短距離には素晴らしいポテンシャルを持った選手がたくさんいます。この選手達も桐生選手にまけじとトレーニングをしてきますから、そう遠くない未来に、9秒台を出す選手が2人3人となることも、あり得ると思います。
陸上競技の100メートルといいますと、最もフィジカルが影響するスポーツのうちの1つと言われています。ですから陸上界では長らく、100メートルでは日本選手は戦えないという風に言われてきました。なぜならば日本選手はフィジカルが弱く、テクニックで戦わなければ勝てないと言われていたからです。
ところが桐生選手の9秒台を受け、これから日本人選手のマインドセットは変わっていくのではないでしょうか。これから日本の短距離は9秒台が当たり前になり、スポーツ界においてはフィジカルで劣っているということもただの思い込みだという風に意識が変わっていくと思います。今の高校生アスリートの目標は9秒98、更には、その先を目標にしていくでしょう。
プロ野球の野茂英雄選手が初めてメジャーリーグで三振を取った瞬間、多くの野球選手のマインドセットが変わり、実際にメジャーリーグに挑戦する選手が増え、現在ではたくさんの選手が、メジャーリーグに在籍するようになりました。それまでは多くの人は日本人はメジャーリーグでは戦えないと思い込んでいたのが、一夜にして変わったのです。
桐生選手の9秒台もまた、多くの日本人選手のフィジカルに関するマインドセットを変えるような出来事だったのだと思います。そう遠くない将来、第二第三の9秒台スプリンターが現れ、陸上界の風景は変わって行くと期待しています。

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