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時代を超える三国志の魅力(視点・論点)

早稲田大学文学学術院 教授 渡邉 義浩

日本でも人気の高い三国志には、実は、物語としての「三国志演義」と、歴史書としての「三国志」の二種類があります。最近、わたしは、歴史書としての三国志の辞典を日本で初めて書きました。物語ではなく、歴史書としての三国志を研究すると、そこには現代にも通じる先人たちの知恵、教訓などを多く学ぶことができます。時代を超えて支持され続けている三国志の魅力について、お話しします。

 およそ1800年前、中国は時代の変革期を迎えていました。前後四百年続いた漢は、農民の反乱で衰退して、命脈が尽きようとしていたのです。漢の最後の皇帝となる献帝を擁立し、漢の実権を握っていたものが、曹操でした。曹操は、中国の北半分を統一するとともに、漢に代わる国家として魏の建国を目指していました。

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曹操の滅ぼそうとする漢を懸命に守った者が、漢の帝室の末裔(えい)と称する劉備でした。日本でも中華街で神様として祭られている関羽のほか、張飛・趙雲の三武将が劉備を助けましたが、最も有名な人が宰相となった諸葛亮、日本では字の孔明で知られますが、諸葛亮です。三顧の礼で迎えられた諸葛亮は、劉備のために戦略を立て、一介の蓆(むしろ)売りであった劉備を蜀の皇帝にまで、押し上げます。
ただし、曹操が中国を統一できなかったのは、劉備の存在のためではありません。中国南東部の江南地方を拠点とした孫権、その武将である周瑜に赤壁の戦いで敗れたためです。こうして、曹操の息子の曹丕(そうひ)が建国する「魏」、劉備の「蜀」、孫権の「呉」という三国が、ならび立つことになったのです。

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吉川栄治の小説「三国志」など、日本で流行した三国志が基本とするものは、冒頭にも触れたように「三国志演義」という小説です。史書の「三国志」を正確に踏まえるものではありません。史書の「三国志」は、三国を統一した西晋という国家に仕えた陳寿という歴史家により著されました。「三国志」は、三国時代が終わった直後の著作ですが、すべて正しい史実を記録できたわけではありません。陳寿は、自らの仕える西晋の正統性、西晋の高官となった魏の臣下たちをはばかり、かれらに不利な史実を隠しながら、史書を執筆しました。「三国志」の一部である「魏志倭人伝」で、日本が大国に描かれるのもその一例です。
一方、元の末、明の初めに、羅貫中がまとめた「三国志演義」は、三国時代に関する伝説や物語、劇や語り物など多くの虚構を史実に加えた作品です。両者の根本的な相違は、正統観にあります。陳寿が魏を正統として三国時代を記録することに対して、蜀を正統とする朱子学が官学であった時代に著された「三国志演義」は、蜀を正統とするのです。清の章学誠により、“七分の実事、三分の虚構”と評された「三国志演義」は、三割の虚構の多くを蜀のために用いています。なかでも、天才軍師の役割を担わされた諸葛亮と、道教の神としてあつく信仰されていた関羽には、その表現に数々の工夫が凝らされているのです。
これら二つの本により伝えられる三国志の魅力は、人の生きざまにあります。三国志は、四百年以上続いた漢が崩壊し、漢を支えていた儒教の開祖である孔子の権威にすら疑問が持たれた、激動の時代でした。ちょうどそのころ、全地球規模で寒冷化が進み、農業生産の中心は曹操の支配する中国の北部から南部へと移りつつあり、中国北部を基盤とする漢の制度は、すでに社会に合わないものとなっていました。そうした明日が見えない時代の中で、人々はどのように未来を描き、日々を生きていたのでしょうか。三国志の魅力は、そうした不確実な時代の中に見えるさまざまな人々の生きざまに、自らが今を生きる指針を求めることにあります。
漢の社会や制度を積極的に変革しようとしたのは曹操でした。曹操の新しさは、漢の制度を大きく改革したことに現われます。それまで漢の支配では、大土地所有者が増加して、土地を失った貧しい農民を救うことができませんでした。そこで曹操は、土地を追われた農民を集め、整備した土地を新しく与え、種もみを渡し、牛を貸して土地を耕させました。これを屯田制といいます。それまでの屯田制は、軍隊が駐屯地で行うものでした。これに対して、曹操の屯田制は、軍隊ではなく一般農民を対象とするものです。国家が土地を管理して農民に渡す。これが隋や唐で後に行われる土地制度である均田制の起源です。日本が遣隋使や遣唐使を派遣し学んだ均田制は、日本に入って名称を変え、口分田を農民に与える班田収受の法となりました。それに課税される租庸調という税の取り方のうち、布で納める調を始めたのも曹操です。漢では貨幣で税金が払われていましたが、漢は貨幣制度を維持できなくなっていたのです。また、反乱を起こした農民たちに対しては、太平道というかれらの信仰を認めたうえで、曹操の集団に受け入れ、自らの軍事基盤にしました。さらに、儒教に基づいて採用していた官僚を、才能に基づき採用することに変え、儒教だけを尊重していた漢の文化を打破するために、詩をつくること、文学を尊重しました。科挙と呼ばれる唐の官僚登用制度で、詩をつくる試験が行われたのは、曹操の影響です。
もちろん、乱世を平定するためには、戦いに勝たなければなりません。そこで曹操は「孫子」に注を付け、自らも兵法書を編さんして、部下の将軍を教育しました。しかし、こうした曹操の革新性に、人々はなかなかついていけませんでした。曹操の改革は、約300年後の隋唐帝国になってようやく実現します。それほどの時代の先をいく才能を曹操は持っていたのです。
これに対して、漢の伝統を維持しようとした諸葛亮は、その政策に限界がありました。曹操と同じように、漢の制度の崩壊をみて、曹操に似ている政策を展開しますが、それは漢の制度の範囲内に止まるものでした。それでも、貨幣経済の衰退に対しては、それまで銅でつくっていた貨幣を鉄で鋳造して対応し、土地を失った農民に対しては、水利施設を整えて農業を振興しました。また、魏への北伐の時には、軍隊だけですが屯田制も実施しました。しかし、多くの仕事を一人で担っていた諸葛亮は、北伐の途中、病のため五丈原に倒れたのです。やがて、蜀は魏に滅ぼされていきます。それでも、約1000年後の南宋で朱子学という儒教の一派をつくりあげた朱子が、諸葛亮を敬愛したように、漢字や漢民族という言葉に今も残る、古典としての漢の伝統を守り続けようとした諸葛亮は、深く尊敬され続けました。なかでも、判官びいきの日本では、諸葛亮は三国志の主役として、物語では天才軍師として愛され続けてきました。
現在の日本は、経済・政治の閉そく感・停滞感に覆われ、既成の価値観は大きく揺らいでいます。そうした時、先人たちがどのようにして時代を切り開いていったのか、その生き方を「三国志」に学んでみるのも、一つの方法ではないでしょうか。

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