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「水俣条約の意義と日本の役割」(視点・論点)

名古屋大学 教授 高村 ゆかり

 2013年10月に熊本市と水俣市で開催された外交会議で採択された水銀に関する水俣条約が、この8月16日に、その効力を発生しました。9月8日時点で、74カ国とEUが水俣条約を締結しています。日本も2016年2月2日に水俣条約を締結しました。来週9月24日からスイスで、締約国の第1回の会合が開催され、水俣条約に関する詳細なルールを決定する予定です。

日本では、水銀汚染が健康や環境に重大な被害を引き起こすことは、水俣病の経験を通じてよく知られています。現在でも、ブラジルなどいくつかの途上国では、水銀を用いた金の採掘などが行われ、水俣病によく似た被害が発生していることも報告されています。

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 水銀汚染の問題は、特定の地域の汚染の問題として考えられてきましたが、科学研究の進展により、人間活動によって大気や水などの環境中に排出された水銀が地球規模で循環し、世界中に拡散していることがわかってきました。

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国連環境計画が発表した「世界水銀アセスメント2013」によると、水銀を排出する工場などがない北極に生息するホッキョクグマやアザラシなどの海洋ほ乳類の水銀の濃度が産業革命前と比べて平均して12倍に上昇しています。
こうした海洋生物に蓄積されている水銀の平均90%以上が人間活動から排出されたものと考えられています。水銀は一度環境中に排出されると分解せず、生物に蓄積していく性質を持つため、近くに水銀を排出する工場や活動がない地域も含め、世界的に健康や環境への被害を生じさせるおそれのある汚染の問題、国際社会全体の問題と考えられるようになりました。水俣条約は、こうした科学研究の成果を背景に国々の間で合意されたものです。
 水銀の使用量は近年減少傾向にありますが、2005年に世界でなお約3800トンの水銀が、依然として様々な用途に使われています。

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こちらのグラフは水銀が大気中に排出される原因となる人の活動とそれによる排出量を示したものです。金の採掘時の水銀の使用からの排出が最も大きな割合を占めます。次いで、石炭火力発電所を含む石炭の燃焼からの水銀排出が大気中への世界の水銀排出の4分の1を占めます。鉄鋼や非鉄金属、セメントの生産、水銀を使用した製品の廃棄物からの排出も相当の量にのぼります。

水俣条約は、人間活動による水銀の排出から人の健康や環境を保護することを目的としています。そのために、水銀を環境中に排出するこれらの活動をできるだけ広く対象として、各国が遵守すべき国際的なルールを定め、水銀による人の健康や環境のリスクを世界的にできる限り小さくしようとしています。水銀の採掘、国際取引、製品や工場などの製造過程での使用、大気や水など環境中への排出、水銀廃棄物や水銀により汚染された土地の管理など、水銀が鉱山で採掘されてから使用され、排出され、廃棄されるまでの、水銀のライフサイクル全体を通して、国が最低限守るべき国際ルールを決めています。

水俣条約が定める規制の中で注目されるのは、水銀を使用する製品の規制です。

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 私たちの身の回りにも水銀を使用する製品がありますが、水俣条約は、そのうち、一定の条件を満たす蛍光ランプ、電池、温度計、血圧計などについて2020年末までにその製造と輸出入を原則として禁止することを国に義務づけています。製品における水銀の使用を規制するのは、先ほどの表で紹介したように、これらの水銀を使用した製品の廃棄物から環境中に排出される水銀が相当量あり、こうした排出を防止するために、製品にできる限り水銀を使用しないようにするための措置です。水銀の悪影響のリスクをできるだけ小さくするために、原則として、水銀を使用する以外に方法がない場合に限って製品に水銀を使用することを認めるという予防的アプローチという考え方をとっています。

日本は、水俣条約を実施するために、水銀による環境の汚染防止に関する法律を新たに制定しました。水銀汚染防止法では、すでに事業者が自主的に水銀を使用しない製品を販売しているものもあることから、そうした製品については水俣条約で定めている2020年を待たないでできるだけ早く水銀を使用しない製品に転換することを定めています。
例えば、一部の電池や蛍光ランプ、化粧品については、2018年から水銀を使用した製品の製造、輸出入が原則として禁止されます。このように規制が必要と政令で定められる製品を「特定水銀使用製品」と定め、こうした製品を製造する場合には国の許可が必要となります。また、こうした製品を製造・輸入する事業者は、消費者が製品をきちんと分別して廃棄できるように表示などの情報提供を行うことが求められています。また、市町村は、水銀が使用された製品が廃棄された場合に適正に回収するために必要な措置をとることが求められます。
世界水銀アセスメントでは、2010年1年間で人間の活動により約2000トンの水銀が大気中に排出されていると推計しています。特に石炭火力発電所をはじめとする石炭の燃焼からの排出がその4分の1を占めます。

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地域別に見ると、日本を含むアジア地域からの排出が世界の排出の半分を占め、1990年以降大きく増えています
中国からの排出が世界の排出の3分の1を占めます。日本には、大小の石炭火力発電所がありますが、さらに40を超える石炭火力発電所の建設が新規に計画されていると伝えられています。石炭火力発電から天然ガス発電や再生可能エネルギーへの転換は、地球温暖化対策としても重要ですが、水銀汚染対策としても重要です。
 水俣条約が発効したことで、諸国が水銀汚染対策について定期的かつ継続的に検討し、対策を強化する合意を行う基盤ができました。一般に先進国より水銀規制が緩やかで、水銀の排出も増加している発展途上国が、水俣条約を締結し、水銀汚染対策を実施するのを支援していくことも必要です。水銀排出の現状や今後の予測に照らせば、特にアジア地域の協力・支援が重要です。
 水俣条約の交渉中も、国、熊本県、そして水俣病患者と支援者のみなさんが、水俣病の経験と教訓を国際社会に伝え、そのことが、水銀による健康や環境へのリスクを国々に認識させ、水俣条約の合意を後押ししてきました。水俣条約という名前は、水俣病のような水銀による健康被害や環境破壊を二度と引き起こしてはならない、そのために水銀汚染対策を進めるという国際社会の強い決意を表すものです。
水俣病の被害者の救済を確実に進めるべきことは言うまでもありません。日本国内で、そしてグローバルに、水銀の排出とその悪影響をできるだけ小さくする「マーキュリー・ミニマム」をめざして、水俣条約を着実に実施し、国際社会をリードしていくことが必要です。
 
 

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