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「江戸の瓦版の実像」(視点・論点)

大阪学院大学 教授 森田 健司

今年2017年は、大政奉還からちょうど150年です。それもあって、江戸時代を見直す動きが盛んなようです。本日は、江戸時代において「庶民のメディア」だった瓦版、その実像についてお話したいと思います。

瓦版というのは、時代劇ではお馴染みの存在です。多くの場合、大きな事件などがあると、「てえへんだ、てえへんだ!」と騒ぎながら、紙の束を抱えた瓦版の売り子が現れます。
しかし、実はこの描写は、史実と大いに異なります。江戸幕府が瓦解する少し前まで、瓦版の売り子で顔を堂々と見せている人は、ほぼいませんでした。
瓦版の売り子のことを、当時は「読売」と呼びました。江戸時代の読売が実際にしていた格好は、多くの場合「深い編み笠で顔を隠す」というものでした。

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これは、葛飾北斎が描いた江戸後期の読売の姿です。二人とも顔を隠していることが、よくわかります。そして、この「二人」というところも大きなポイントです。多くの読売は二人一組で活動していました。それは、一人が販売している間、もう一人が見張りをするためです。
なぜ、見張り役が必要だったのでしょうか。それは、瓦版の販売は、幕府によって禁止されていたからです。
われわれが瓦版と呼ぶ、ニュースを掲載した刷り物が売られはじめるのは、天和年間(1682~83)頃からと言われています。これ以前にも幕府が作ったと思われる刷り物が庶民に頒布されたことはありましたが、庶民が自主的に瓦版の販売を始めたのは、この頃で間違いありません。
ところで、江戸時代に表現や報道の自由があったかというと、これは極めて制限された形でしか存在しなかった、と言わざるを得ません。近代以前の社会というのは、国を問わず大体そのような状況でした。江戸幕府も、瓦版のような庶民のメディアを良く思ったはずはなく、貞享元(1684)年には、早くも瓦版を禁止する「読売禁止令」を出しました。なお、当時は「われわれが瓦版と呼ぶ刷り物」も「瓦版の販売者」も、共に読売と呼びました。
これでおわかりのように、読売が二人一組で活動し、役人を警戒していたのは、禁令が実際に出ていたためです。この後も、繰り返し読売禁止令は出されました。しかしながら、江戸時代のお触れというのは、努力目標に近いものがあり、役人もよほどのことがない限り、読売を捕まえてはいません。互いに「空気」を読んでいたということですね。
瓦版は時事問題を伝えることがその使命でしたが、商売でやっていますので、売れなければ成り立ちません。なので、取り上げるニュースの選択基準は、社会的に意義があるかどうかというものではなく、「庶民が興味をもってくれるかどうか」というものでした。
江戸時代を通して最もセールスをあげたのは、黒船来航と、安政江戸地震に関する瓦版です。これらは共に、庶民にとって「のどから手が出るほど欲する情報」が掲載されたものでした。
まずは、黒船来航の瓦版からご紹介します。
ご存じのように、アメリカのペリー提督が率いた黒船四隻は、嘉永六年(1853)6月3日に、現在の神奈川県浦賀沖にやってきました。彼らは幕府に開国を要求しに来たわけですが、庶民としては、そのような交渉よりも黒船自体に興味があります。
そこで発行されたのが、このような瓦版です。

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大きく蒸気船の絵が描かれ、右上には黒船の詳細なデータ、左上には主にアメリカという国についての説明が記されています。驚くべきは、「アメリカの首都はワシントンである」という情報までが書き込まれていることです。当時の日本は、オランダ、中国、朝鮮、琉球の四ヶ国としか国交がありませんでしたが、特にオランダを通じて、世界中の情報が入ってきていました。この瓦版からも、その実態が窺えます。
他にも黒船来航を報じる瓦版は数多くあります。

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次のものなどは、黒船がまるで妖怪のように描かれています。
船首に巨大な人頭、船尾には口を開けた獅子頭が取り付けられて、なんとも物々しい雰囲気です。これなど、庶民が黒船から受けた印象の一つを、うまく図像化したものだと言えそうです。
ペリーは一度日本を離れ、翌年の嘉永七年(1854)1月16日に再来航します。

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この後、日米和親条約が結ばれるのですが、庶民はそのことよりも、アメリカ側の贈り物である蒸気機関車の模型などに関心があったようです。
蒸気機関車の模型を描いた瓦版も、複数発行されています。

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また、日本側はアメリカに米俵をたくさん贈っていますが、その際、米俵をアメリカの小船まで運ぶ要員として、著名な力士を呼び集めました。それを報じる瓦版も出ています。
幕府は、背丈の高いアメリカ人たちに対し、「日本にも強くて大きな人間がいるぞ」ということを見せたかったのでしょう。少々微笑ましいエピソードですが、当時から180センチメートルを超えるアメリカ人が多くいたのに対し、日本人男性の平均身長は155センチメートルほどだったので、こういう対抗策を講じたのも仕方ないと思います。
次に、安政江戸地震についての瓦版をご紹介しましょう。
安政江戸地震は、安政二年(1853)の10月10日、江戸で起きた直下型地震です。震度は6以上だったと言われ、木造ばかりだった江戸の建築物は、ほとんどが被害を受けました。死者は、江戸府内に限っても一万人前後と推察されています。
この安政江戸地震の被害状況を伝える瓦版は、600種以上発行されています。

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ここに紹介する「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしづえ)」は、その中の一枚です。
ここには地震の被害状況が詳細に書かれていますが、それ以外にも、興味深いところがあります。例えば、記事のはじめの方を現代語訳すると、「結婚や仕事で地方から江戸に出てきている人々は、一刻も早く故郷の両親に『私は無事でした』と知らせて、安心させてあげなさい」となります。なんだか瓦版を製作した人の気遣いが感じられる文章です。

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安政江戸地震のみならず、大きな天災地変などがあった際は、お救い小屋、つまり避難所が建てられました。これは幕府主導のものですが、費用は経済的余裕のある人々の寄付によることが多かったようです。誰がどの程度寄付したかについて報じる瓦版も、発行されています。
江戸時代の瓦版には、他にも様々なものがあります。敵討に関する瓦版などは、先ほど紹介した二つのテーマ以外では、特に発行数が多いものでした。
また、幕府の力が弱くなった文久年間(1861~64年)以降は、ずっと禁止されていた政治的な内容の瓦版も出始めます。その中には、幕府への批判が込められたものまでありました。

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例えば、開国以降の物価乱高下を皮肉った次の「泰平 民の賑夢踊」も、その一枚です。
これは慶応二年(1866)発行のもので、右下の人物の頭の中で「豊作軍」と「値上げ軍」が戦う様を描いたものです。これも幕府の終焉にごく近い時期のものですが、大政奉還後の慶応四年に起きた戊辰戦争を報じる瓦版は、さらに過激なものとなっていきます。
このような瓦版は、江戸時代の終わりとともに消えてしまったと思っている方々も多いはずです。しかし実際は、明治に入っても20年以上は、新聞と並存していました。
それは、瓦版が庶民の興味関心を探求し続け、結果として高い娯楽性を帯びたメディアとなっていたからではないか、と思います。
 

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