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「人手不足と賃金停滞」(視点・論点)

東京大学 教授 玄田 有史

 公共職業紹介機関ハローワークが把握する、求職者数に対する企業の求人件数を意味する有効求人倍率は、2016年度には1.39倍と、バブル期以来の高水準を記録しました。最新の17年7月の求人倍率は1.52倍と、単純計算では3件の求人に2人しか採用できないほどの人手不足の状態となっています。
経済学の教科書を読みますと、人手不足になれば、労働市場の価格調整にしたがい、おのずと賃金は上昇してくると書かれています。しかし、日本の現実は、そんな教科書の指摘とは、ほど遠い状況にあります。

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 厚生労働省の調べによれば、現金給与の実質的な購買力を示す実質賃金は、2016年に前年より0.7%アップしたといいます。ただ、それにしても賃上げのペースは、人手不足の深刻さに比べて非常に弱いのが現状です。
 よく賃金が上がらないのは非正規雇用が増えたからといわれます。雇用者の約4割を正社員以外が占めるなど、今や非正規雇用は職場にとって欠かせない存在です。正社員に比べ賃金が低い非正社員が増えると、雇用者全体でみたときの平均賃金はたしかに下がります。
 ただ、非正規雇用の求人が拡大しているのならば、非正社員の賃金はもっと増えてよさそうなものですが、顕著な上昇はみられません。新規学卒者の採用内定が増えるなど、正社員の求人も着実に増えていますが、正社員の賃金も伸び悩んだままです。
 かつてイギリスの経済学者ケインズは、失業が減らない理由として賃金が下がらない賃金の下方硬直性を指摘しました。それに対し現在の日本は、人手が足りなくても賃金が上がらない、賃金の上方硬直性が生じているように思えます。

 では、人手不足にもかかわらず、賃金が上がらないのは、なぜなのでしょうか。
 人間の行動を考察する最近の研究からは、労働者は過去に支払われた水準より賃金が下がることを、とても嫌うことが指摘されてきました。賃金が下がることに労働者の抵抗が大きく、実際下がってしまうと働く意欲や生産性が失われるといいます。反対に、賃金が下がりさえしなければ、上がることにそれほどこだわらないという人も多いといわれます。
 このとき、人手不足に対処すべく、企業が賃金を大幅に引き上げたとします。その後に厳しい不況が生じた場合、今度は賃金を下げないと経営が圧迫されることになります。ですが賃金を下げてしまうと労働者は、とたんにやる気をなくすため、下げるにも下げられない事態に陥ってしまい、経営が成り立たなくなるおそれが生じます。
そのため賃金が下げられないことを見込んでいる企業は、今が人手不足でも将来また不況になることを心配するあまり、おいそれとは賃金を上げられないのです。
 実際、最近の企業の賃金動向を分析した研究からは、過去に賃下げを行わなかった企業ほど、賃上げもしない傾向もみられます。このように賃金が下がることをおそれる心理が強いほど、人手不足でも賃金を上げられないのです。
 加えて賃金の伸び悩みには、高齢化も影を落としています。
 年功賃金や長期雇用など、日本的雇用と呼ばれた慣行は、依然ほどには日本の企業でみられなくなったという声が聞かれます。ただし1990年代初めのバブル経済の時代に入社した世代までは、伝統的な日本的雇用の恩恵にあずかる場合も少なくありませんでした。
 そんな日本的雇用の恩恵を受けてきた世代も、2000年代後半以降、高齢者となり、徐々に定年退職を迎えるようになります。正社員として働き続けてきた高齢者の賃金は、若い社員に比べれば、年功により高い水準にありました。それが定年退職によって、高い賃金を失う人々が大量に発生しました。高い賃金を得ていた人が一気に退職したため、賃金を引き下げる力が強く働いたのです。
 さらに定年で辞めた人たちの多くは、そのまま引退したわけではありません。定年後も契約社員や嘱託社員として会社に残ったり、別の会社で新しい仕事に就くことになりました。共通するのは、高齢者は多くが非正規雇用になったことです。団塊の世代を含む60代の非正規雇用が大量に増えたことで、高齢者の賃金が増えない状況が生まれたのです。
 人手不足は、20代などの若い働き手について、特に深刻な状況にあります。少子化の影響によって貴重となった若者の賃金は、本来もっと増えてもよかったはずです。しかし若者には、低賃金で働く非正規雇用の高齢者が、一部の仕事で競争相手となっています。その影響を受け、若者の賃金も伸び悩んでいるのです。
 政府は人口減少に対処するため、一億総活躍社会という目標を掲げ、高齢者の労働参加を促してきました。皮肉なことに、高齢者の労働参加が続く限り、賃金はなかなか上がらない可能性があるのです。

 ここまで高齢者や若者について触れましたが、実のところ、賃金面で近年最も厳しい状況にあったのは、30代後半から40代前半に差しかかった、かつての就職氷河期世代の人々でした。40代前半の大学卒・大学院卒の月給を比べると、氷河期世代では、その前のバブル世代よりも平均2万円以上少ないという統計もあります。
 就職氷河期世代は、新卒時の就職活動のときだけでなく、その後の職業人生でも困難を経験してきました。転職は当たり前になり、賃金は大企業に比べて低いことが多い中小企業で働く大学卒も増えました。さらには直前のバブル世代の採用が大量だったため、管理職へと昇進するのも遅れ気味となっています。これらの状況は、すべて氷河期世代の賃金の伸び悩みにつながったのです。
 さらに氷河期世代にとって深刻なのは、20代の頃に上司や先輩からの指導や勤め先で教育や訓練を受けた経験が少なかったと、多くが感じていることです。氷河期世代が働き始めた2000年代初めには、サービス残業という言葉がよくささやかれました。しかし、激務をこなしてきた経験が技能や賃金の増加につながっていないのです。現在賃金が上がらない背後には、かつての就職氷河期が影を落としていることも忘れてはならないでしょう。

 人手不足なのに賃金が上がらない背景には、他の要因もあります。例えば介護保険制度では事業者に支払われる介護報酬が決まっているため、それが制約となり、賃金を上げることが難しくなっています。また企業にとって雇用者の社会保障の負担が重く、賃金を増やす余裕がないといった指摘などもあります。これらの制度面の影響をなくすのは簡単ではありません。
 では、賃金が上がらない状況は今後も続くのでしょうか。この夏、人手不足が特に深刻なサービス業ではボーナスを増やす動きも広がり始めました。人手不足のなかで労働者の頑張りに期待する方策として、今後はボーナスが大きな役割を果たす可能性があります。
 また増え続けてきた非正規雇用も、最近は伸びが一段落しつつあります。高齢者や女性の働き手がこれ以上増えない状況が訪れた場合、賃金は大きく伸びていくかもしれません。
 デフレ経済の脱却のためにも、今後も賃金の動向に関心を持っていくことが求められます。

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