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「生誕150年 ライトの建築と日本」(視点・論点)

東京都江戸東京博物館 研究員 米山 勇

ことし、2017年は、建築家フランク・ロイド・ライトの生誕150年にあたります。きょうは、時代を超えて脚光を浴びるライトの建築と日本とのかかわりをテーマにお話しいたします。

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ライトは、1867年ウィスコンシン州リッチランド・センターに生まれ、1959年アリゾナ州フェニックスに没したアメリカの建築家です。92年に近い人生のうち、72年間を建築家としてすごしたライトは、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエとともに「近代建築の三代巨匠」と呼ばれ、20世紀の世界建築に多大な影響を与えました。
彼は非常に多作の建築家であり、生涯で800を越す建築を手がけました。そのうち、アメリカ以外で手がけた設計案はわずかに32件とされています。さらに、実際に建った作品となると、アメリカ合衆国以外の国は、カナダと日本だけになります。つまり、北米以外で唯一ライト作品を有する国が、日本ということになるわけです。そういう事情もあってか、ライトは、私たち日本人にとって、親しみのある存在です。建築に詳しくなくても、ライトの名前は知っているという人は多いのではないでしょうか。
ライトの方もまた日本に並々ならぬ関心を抱いていました。彼はウィスコンシン大学土木科を中退した後、1887年に当時シカゴで活躍していた建築家ルイス・サリヴァンの事務所に入ります。ライトがサリヴァンの事務所を去ることになる1893年、サリヴァン事務所はシカゴで開催される万国博覧会の交通館の設計を担当します。このシカゴ万博でライトは、日本館として出展された「鳳凰殿」と出会います。

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この鳳凰殿は名前の通り平等院鳳凰堂を原型としたものでしたが、各部の形態は平等院鳳凰堂とはかなり異なるものでした。しかし鳳凰堂との類似性より重要だったのは、地を這うような水平性、深い軒、左右対称の全体像という性格でした。後に彼が手がけることになる日本での作品と重要なつながりを持つものであったといえます。
その後、ライトは1905年(明治38年)に初来日しますが、このときは純粋な「日本旅行」で、日本の版画や美術品の収集が主な目的だったようです。その後もライトは幾度か日本にやってきて、版画・美術品の収集にいそしみ、また日本の建築を見たようです。あるいはこの間、京都・宇治の平等院鳳凰堂も見たかもしれません。
さて、ライトが単なる旅行や版画の収集などではなく、「建築家」として来日したのは、1916年(大正5年)、帝国ホテルの建設のためでした。当時ライトは度重なるスキャンダルのためにほとんど仕事を失っていて、アメリカ合衆国を襲った大恐慌がその状況に追い討ちをかけました。そこに救いの手を差し伸べたのが、帝国ホテルの支配人・林愛作でした。

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帝国ホテルは1923年(大正12年)に竣工します。その竣工披露宴は、くしくも同年の9月1日、関東大震災の当日でした。帝国ホテルの建築はあの巨大地震にも耐え、さしたる被害も受けずに立ち続け、人々にライト建築の存在感を知らしめたのです。
この帝国ホテルの設計のために来日した7年間に、ライトはいくつかの建築を日本で手がけています。

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そのうち、酒造家・八代目山邑太左衛門の別邸として建てられた、兵庫県芦屋市の旧山邑家住宅(1924年・大正13年)、羽仁もと子・吉一夫妻の要請で建てられた東京・目白の自由学園明日館(1921年・大正10年~1927年・昭和2年)が現存し、国の重要文化財に指定されています。
さて、ライトの建築が持つ魅力、帝国ホテルをはじめとする作品が見せたライト建築ならではの特徴とは、なんだったのでしょうか。ここでは3つの特徴をあげてみたいと思います。
ひとつめは、個性的な装飾です。

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20世紀の建築家たちが追い求めたモダニズムの建築は、それまで2000年にもわたって西洋で力をもった「装飾性」を否定しました。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ワルター・グロピウスといった、「近代建築の巨匠」と言われる建築家たちが一様に装飾を否定するなかで、ライトの建築は豊かな装飾をまとい、大谷石、スクラッチタイルという個性的な素材で建築が彩られました。注意したいのは、一見複雑そうに見えるライトの装飾ですが、非常に単純な原理でデザインされているということです。これをご覧いただきたいのですが、自由学園明日館ホールの大窓です。

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垂直線と水平線、そして斜めの線からなるすばらしい構成ですが、ここで重要なのは、斜めの線が、屋根の勾配から生まれていることです。単純な原理を徹底して繰り返し、あたかも多様な要素からなっているような装飾効果を生む。これは、1910年代半ばから1930年代にかけて欧米で流行したアール・デコの原理に非常に近いものだといえます。フランク・ロイド・ライトとアール・デコの親近性は、重要視されるべきでしょう。
2つめは、空間の魔術的な演出です。ライトは、スキップフロアをきわめて有効に使った建築家でした。

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1階と2階、あるいは3階を機械的に階段でつなぐのではなく、わずかな段数の小階段を随所に仕込み、中2階、中3階、時には中々2階、中々3階を設け、空間を流動的につないでいくのが、ライトの真骨頂でした。訪れた人はライトの思うままに、空間を上下に移動し、建築の立体的なドラマに引き込まれていきます。写真は旧山邑家住宅の内部ですが、このようないわば「立体的迷宮」を作り出す魔術において、ライトはおそらく20世紀の建築家のなかでも最も卓越した手腕をもった建築家だったと言っていいでしょう。
3つめは、大地、自然との連続性です。フランク・ロイド・ライトは、自分の作品が建つ敷地の特徴をあらかじめしっかりと読み込んだ上で、土地の起伏や形状、環境を最大限生かす建築家でした。

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丘陵地に建つ旧山邑家住宅は、土地の起伏をそのまま生かし、建築の内部は、さまざまな高さの床が3次元的に交錯する構成をとっています。そのことが、先ほど述べた「立体迷宮」の実現につながっているのです。一方、自由学園明日館は、当時武蔵野の面影があった豊かな自然の中に、地を這うように水平に伸びる校舎として建てられました。

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その全体像はライトが「草原住宅=プレーリースタイル」と呼んだ手法そのものです。廊下と教室の床は段差がなく、大地と密着して建物全体が生えているような印象を受けます。これはたとえばル・コルビュジエが提唱したピロティ、すなわち建物と大地を切り離し、宙に浮かぶような建築を理想とした姿勢とは対照的といえます。ライトにとって、建築と大地、自然は常に不可分なものであったわけで、考え方によっては、古来「建築と庭」、「建築と自然」のつながりを重要視してきた日本建築とつながる特徴をライトの建築は持っていたといえるかもしれません。
個性豊かな装飾、劇的な空間構成の魔力、建築と大地・自然との融和。フランク・ロイド・ライトの建築には、多くの人が理屈抜きに感じることのできる「建築のすばらしさ」、「住んでみたい家」といった魅力が結晶しているといっても過言ではないでしょう。博物館明治村(愛知県犬山市)に玄関部分が移築再建されている帝国ホテルも含め、自由学園明日館、旧山邑家住宅という3つのライト作品を日本が有していることを、私たちは誇っていいのではないでしょうか。生誕150年を迎えた今もなお、ライトの建築の価値は輝きを放ち続けています。

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