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「150年前の視点から見た日本の近現代政治」(視点・論点)

東京大学 名誉教授 三谷 太一郎

日本は、今年敗戦から72年目の8月を迎えました。72年前の敗戦の衝撃を経て、日本は「8月革命」といわれるほどの政治的経済的な大変革のみならず、社会的文化的な深みにまで及ぶ大変革を遂げました。しかしこのような大変革は、突如敗戦によって引き起こされたものではありません。それは、敗戦からさかのぼる、ほぼ半世紀の歴史の中で、必ずしも目には見えない形で進行して行きました。それを特に政治について検証するために、今から、ちょうど150年前の1867年(日本の慶応3年、幕府の大政奉還が行われた年で、坂本龍馬が暗殺され、夏目漱石が生まれた年)に英国で出版されたThe English Constitution(『英国の国家構造』)という書物を取り上げたいと思います。

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著者のウォルター・バジョットは、現在も存続している英国の有力紙『エコノミスト』の編集長の地位にあり、英国で最も影響力のある経済・金融ジャーナリストであるとともに、政治ジャーナリストでもありました。

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バジョットの『英国の国家構造』は、19世紀後半の英国の的確な政治分析にとどまらず、同時代の英国を越えて、国際的にも大きな影響を及ぼした書物であります。後の米国大統領ウッドロー・ウィルソンや日本の福沢諭吉らにも、強い影響を与えました。それは今日では政治学の古典の地位を占めているといってもよいと思います。
まずその要点を申します。バジョットは、彼自身が生きていた1860年代のヴィクトリア朝の英国の政治体制を「二重構造」としてとらえています。一つは国民の目に見える、体制の「尊厳的部分」(dignified parts)であり、もう一つは必ずしも国民の目には見えないが、体制を実際に動かしている「実践的部分」(efficient parts)であります。そして政治の「生きた現実」を把握するために、「実践的部分」の中心は何かを問題とします。つまり真の権力の所在を追究します。それが cabinet(内閣)です。「内閣」は立法権と行政権とを結合する要であります。これは、当時の英国の代表的な政治学者ジョン・スチュアート・ミルに代表される通説(権力分立論)では必ずしも説明できません。ミルは、選挙された衆議院(The House of Commons) が実際に国家を統治する官僚エリートの行政権をコントロールする体制、つまり議会と行政との相互的抑制均衡のメカニズム、立法権と行政権との権力分立が英国の政治の現実だと考えました。バジョットは、それは英国の政治の「生きた現実」ではない、「紙上の説明」だと批判したのです。
 バジョットによれば、かつては体制の「実践的部分」であった王(当時はヴィクトリア女王)や貴族院(The House of Lords)は、今や体制を装飾する「尊厳的部分」となり、それに代って新しい体制の「実践的部分」が形成されている。その中心が立法権と行政権とを結びつけている「内閣」だというのであります。政党を基盤とする「内閣」(政党内閣)が、1860代の英国を動かしている真の権力の中心だというわけです。
「実践的部分」の機能を失った王や王室は、逆に「尊厳的部分」として安泰化していったわけです。後世のある解説者は、「尊厳的部分」となった王を「国民統合の象徴」(a symbol of national unity)と表現しました。
 以上に見たような英国の国家構造の歴史的変化、「実践的部分」と「尊厳的部分」との二重構造化は、実は近代日本についても見ることができるのではないかと思われます。つまり憲法をはじめ、明治国家の枠組をつくり上げた、かつての反幕府勢力、すなわち藩閥勢力のリーダーたちがかつての「実践的部分」から貴族身分となり、体制の「尊厳的部分」に変化し、それとともに、藩閥勢力のリーダーたちによって、国家主権の主体として擁立された天皇が「尊厳的部分」の頂点に君臨しながら、政治的には機能を失っていったということであります。そして新しい「実践的部分」、具体的には政党勢力、軍部、官僚勢力が相互に競合しながら、英国についてバジョットが指摘したような「政党内閣」に相当する新しい権力の中心が、日本においても大正後半から昭和初頭にかけて形成されて行ったのであります。
しかもそのような政党内閣の現実化にともなって、非政治化された天皇像を憲法上合理的なものとして説明する憲法解釈が通説として定着します。つまり国家を法人と見做し、天皇を法人としての国家の最高機関と見做す憲法学者美濃部達吉の憲法学説(後に「天皇機関説」といわれた憲法学説)がそれであります。19世紀後半の英国において進行したような君主の「実践的部分」からの離脱、「尊厳的部分」への移行が日本においても明治末期(具体的には日露戦争後)から顕著になりました。天皇主権の名目化・形式化、いいかえれば天皇の非個人化・象徴化が、政党内閣の現実化とともに進行したのであります。そのような天皇像の変化は、おそらく明治から大正への代替わりとともに、さらに顕著になっていったということができるのではないでしょうか。現行憲法における象徴天皇の規定に通ずる天皇像の変化が、明治から大正にかけて起きていたと見ることができます。
『英国の国家構造』が出版された1867年には、英国においては大規模な選挙法改正が行われ、多数の都市労働者層が選挙権を獲得しましたが、これによって政党内閣の基盤を成す政党組織は拡大強化され、権力の中心はいよいよ明確になりました。日本においても、大正期の男子普通選挙法成立にいたる二度の選挙法改正の過程は、英国の場合と同様の政治的効果をもたらしました。バジョットは、あらゆる重大な決定が行われる真の権力の中心として「内閣」を位置づけるとともに、近代政治の理念としてバジョットが強調した「議論による統治」(government by discussion)の主体であることに期待しました。すなわち国家のフォーマルな決定が、内閣のメンバーの間の比較的自由な議論の過程を通して行われることが望ましいと考えたのです。
しかし「内閣統治」は、バジョットが考えたような形では行われませんでした。内閣の内部における議論を国家の重大な決定に結びつけようとするバジョットの「内閣統治」の考え方は、やがて別のものに転化して行きます。それは「内閣統治」から「首相統治」への変化です。その転機となったのは、戦争下の首相の権力の拡大です。それを体現したのは、第2次世界大戦におけるウィンストン・チャーチルや戦後にそれを受け継いだ労働党政権のクレメント・アトリーです。

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しかも「首相統治」は、まさに今の日本にも、その原因はともかくとして、それが顕著に現れていることはいうまでもありません。今の日本では「首相統治」に対して、首相権力の恣意的行使を防止し、立憲主義からの逸脱を抑制する「実践的部分」を形成する必要があります。150年前の『英国の国家構造』を分析した視点から、今の日本の政治の現状を見ることは、決して無意味ではありません。

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