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「バングラデシュ テロから1年」(視点・論点)

東京外国語大学 講師 日下部 尚徳

バングラデシュの首都ダッカにあるレストランが武装集団に襲撃され、日本人7人が犠牲となったテロ事件から7月1日で1年となりました。あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
欧米諸国とも良好な関係を築き、穏健なイスラム国家とみられていたバングラデシュでの大規模テロ事件は、アジアにおけるテロの拡散を印象づけ、国際社会に大きな衝撃を与えました。実行犯全員が射殺されたことにより、テロの動機は藪の中となってしまいましたが、年7%の経済成長のもと、社会が大きく変わろうとしているバングラデシュの、宗教と政治の関係を今後も注視していく必要があります。

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バングラデシュでは、2013年頃からイスラム武装勢力によるものとみられる襲撃事件が増加していました。襲撃の対象は、過激なイスラム思想を批判するブロガー、外国人、性的マイノリティーの権利を求める活動家、イスラム教シーア派やヒンドゥー教徒、仏教徒などの宗教マイノリティーです。2015年には、邦人男性が殺害される事件が発生したことから、日本大使館も警戒を強めていました。

 このような社会情勢の中で、一年前、日本の援助関係者7 人を含む民間人20人が殺害されるという、残忍かつ計画的なテロ事件が発生しました。現地警察は、外国人を標的にしたテロであると断定し、首謀者とみられる男をはじめ、武装勢力のメンバー180人を殺害、拘束するなど、取締まりを強化しました。また、若者が過激思想に感化されるのを防ぐために、テレビCMや看板を作成するなど、一般の人の目に見える形で過激派の問題を提起しました。これにより、襲撃事件は激減しましたが、今年3月に空港の近くで爆弾事件が起きるなど、依然として緊張状態が続いています。
事件を受けて外務省は、安全対策を取りまとめ、緊急連絡網の作成や訓練の実施、防弾車などの安全機材の強化を進めました。その上で、今年6月には、火力発電所建設や国際空港拡張工事などを含む、総額1800億円におよぶ貸付契約が締結されました。これにより、2014年に日本政府が表明した6000億円の支援が、4年間で達成される見込みです。現地渡航が制限される中、例年通りのスケジュールで支援を継続できたことは、テロに屈しない、強固な2国間関係をアピールする上で、極めて重要な意味があったといえます。

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日本の国際協力機関であるJICAは、治安の悪化しているイラクやアフガニスタンといった地域では、厳重な安全対策のもとで活動をおこなってきました。しかし、バングラデシュのように、治安面での大きな不安がなく、それ故に大規模かつ全国的に支援を実施している国で、援助関係者がテロに巻き込まれるという事態は想定しておらず、事件以降、家族を帰国させたり、夜間外出やレストランでの食事、車以外での移動を原則禁止したりするなどの対策を徹底しました。今後の日本の国際協力においては、宗教的に中立で、しかも相手国のためによいことをしているのだから、テロの標的になることはないという、これまでの定説が通用しないという前提に立って、安全確保を最優先にした実施体制が求められているといえます。
また、進出している250社の日系企業も、警備員の増強や避難路の確保、防犯カメラの設置など、援助関係者同様に安全対策を徹底し、企業活動を継続しています。テロ以降も進出企業は増加しており、バングラデシュ経済に対する期待の高さがうかがえる一方で、テロの脅威にどう対処していくのか、官・民一体となった模索が続いています。
このように、今回のテロ事件は、穏健なイスラム国家とみられていたバングラデシュのイメージを180度変えたという意味で、そのインパクトはきわめて大きかったといえます。

さらに、バングラデシュの不安定化は、周辺国にも影響を及ぼす可能性があります。

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バングラデシュは、インドとミャンマーに国境を接しています。インドには、1億8000万人ものイスラム教徒がいますが、人口の8割をヒンドゥー教徒が占めることから、イスラム教徒は圧倒的な少数派になります。ヒンドゥー至上主義的な言動で知られるモディ首相が政権の座について、イスラム教徒が社会的な疎外や政治的な差別を感じる場面が増えたともいわれています。また、東側を接するミャンマーは、イスラム教の少数民族ロヒンギャと政府の間で紛争の火種を抱えており、現在7万人近いロヒンギャ難民が、バングラデシュに避難する事態となっています。さらに、世界第2位のムスリム人口を抱えるパキスタンは、アメリカとともにテロとの戦いの最前線にありますが、親米的な政策に対する国内からの批判は後を絶ちません。
このように、バングラデシュの周辺地域に暮らすイスラム教徒の中には、国際社会やそれぞれの国の政府に対する不満を抱える人が少なからず存在します。そんな中にあって、1億4000万人のイスラム教徒が暮らすバングラデシュの宗教と政治の関係が安定していることは、地域の安定にとって、大変意味のあることでした。もしバングラデシュがテロの温床になるようなことがあれば、武装勢力のネットワークを通じて武器や資金の流れが活発化し、テロの連鎖が南アジア全体に飛び火しかねません。
シリアやイラクのISの勢力が弱まる中、戦闘員がそれぞれの国に帰国しているともいわれ、国際的な過激思想に共鳴した国内出身者による、いわゆる「ホームグロウン」型のテロや、単独犯による「ローンウルフ」型のテロが、5億人ともいわれる世界最大のイスラム教人口を抱える南アジアで活性化する可能性は否定できません。今回の事件を機に、バングラデシュが南アジアの安定にとっていかに重要であるのか、国際社会は気づかされることになりました。
バングラデシュは昨年、GDP成長率が過去最高の7%台を記録し、今年もひきつづき順調な経済成長を続けています。急速な経済成長は既存の社会の価値観や社会のヒエラルキーにも大きな変化を生じさせます。これまでの社会ではあり得ないような立身出世を成し遂げるものや、宗教的な価値観よりも経済的な価値観を全面に押し出す人も現れます。現実に広がる貧富の格差や、伝統的価値観の崩壊などに接して、人びとが懐古主義的なイスラム教の言説になびくこともあるかもしれません。このような社会変化の渦中におきた昨年のテロ事件は、実行犯全員が射殺されたことにより、一人一人がISの理念に共鳴するにいたった経緯は不明のままですが、今後バングラデシュにおける宗教と社会の関係がどのように変化していくのか、動向を注視する必要があります。
日本の国際協力に関していえば、日本人の命を危険にさらしてまで、なぜ支援を継続するのかという批判もありますが、テロが原因で援助が途絶えてしまっては、それこそテロリストの思うつぼです。平和を望む多くのイスラム教徒を支援しているという姿勢を明確にすることで、ムスリム社会と良好な関係を築くことが、結果としてテロの脅威の軽減につながると考えられます。


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