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「書の見方 楽しみ方」(視点・論点)

書家 石川 九楊 

5歳から書を習い始めて、かれこれ60年以上にわたって、書の作品を制作し、書とはどのような表現であるかについて考えてきました。その経験から「書ほど楽しいものはない」「書ほどわかりやすい表現はない」と確信するようになりました。楽しくて、解りやすいはずの表現が、一般にはどこがいいのかわからず、難しい芸術として敬遠されています。わかりやすいはずの表現がわかりにくい表現と思い込まれている。なぜそのような事が起こるのでしょうか。

そこには、書を見るときの見方に問題があります。
書がわからなくなる、書をわかりにくくしている鑑賞法に3つがあります。

<書の見方の問題点①>
その一。書をみて、うまいのか、へたなのかと考える。
うまいかへたか。そのような荒い網目で書を掬うことはできません。
うまい、へたとはいうのは、子どもの習字教育の進展、上達度をはかる時の一つの基準にすぎません。
 
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たとえば、ここに掲げた江戸時代の僧、良寛の「二十」の字と、同じく禅僧の白隠の字の「十二」は、うまいのでしょうかへたなのでしょうか。どちらがうまいのでしょうか。ふたつの書を前にして、このような問いが成立しえないことは明らかでしょう。うまいかへたかではなく、そこにどのような表現がなされているかが問題なのです。

<書の見方の問題点②>
その二。何と書いてあるかと悩む事。
床の間の掛け軸。あるいは料理屋や温泉旅館に掛かる扁額を見て、何と書いてあるのだろうと考える。また、お茶会で床に書が掛かっている。それを見て「○○○」と書いてありますね。」「××さんが書かれたのですね。」「たいへんに結構な字ですね」とか「さすがに素晴らしいですね」と通り一ぺんの事を言って済ませている人が多いのではないでしょうか。
何と書いてあるか知りたいというのは、ごく自然のことですが、書の表現はその先にあります。

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例えばこの図の右側は「二十」左側には「十二」と書かれています。
活字に直せば「二十」「十二」。それだけの事です。しかし文字の一点一画、さらにはその一点一画の書きぶりがどうかを問題にする書においては、「二十」がどのように書かれ「十二」がどのように表現されているかが問題です。書は「どのように」書かれているかを見、楽しむ表現ですから「何と書かれているか」ではなく「どのように」書かれているかを考えるべきなのです。

<書の見方の問題点③>
その三。書を美術の一種として考えること
文字の点画を太い細い、あるいは長い短いなどといいます。だが、あくまでそれは点画の様子、その書きぶりを語ろうとしているものです。書は言葉であるところの文字を書き進めていく力の具合、力のあり様です。強かったり、弱かったり、重かったり、軽かったり、奥深くに向かっていたり、表面上を軽く走るようなものであったり、真正面に正対したり、斜に構えたり、というように。
言葉を書き進めていく力の展開。それが美術であろうはずがありません。
彫刻家であり詩人、すぐれた書を残した高村光太郎は書の美の一に「筆触の生理的、心理的統整」をあげています。筆触とは筆ざわりのことです。
言葉が書きつけられた紙きれ、文字の掘り込まれた石。それは視覚的な美術ではありません。書は言葉を順に書き付けていった跡ですから、時間的、その進行プロセス、過程的な書きぶりの中に表現が定着しています。
したがって、書はその書きぶりをなぞるようにして読み解く それが書の鑑賞法です。

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たとえば良寛の十の字。第一画は進行方向ヨコに「スッ」と入長くり込んで止まり、次に右下から左上へ筆先で軽く「トン」と奥に突きこむように起筆して、十分な余力をもって少々戯れるかのように筆ざわりを楽しみながら「ふわっ」と第二画のタテ画を書いています。
他方、白隠の「十」では、第一画は「ドスン」と起筆して、そのまま力をゆるめることなく「ズズズ」と引いて、終筆部で「グイ」と抑えこみます。ここで間があって、ヨコ画に対して低い位置から第二画を、これまた「ドスン」と起筆し、多少力は弱くなっていくものの「ズズズ」と引いて終わっています。
「スッ」「トン」「ドスン」「ズズズ」と擬音、擬態語が出てきたことからもわかるように書は筆ざわり、つまり触覚的な表現であり、絵画のような視覚的な表現とは基本的に異なります。

そして、その画きぶりを、指でなぞってやると、良寛からは自由な遊びの心が、他方白隠の書きぶりからは、グイグイと押し寄せ、迫りくる力が感じられます。それが良寛と白隠の書の違いです。
どうでしょう。書が見えるようになったのではありませんか。
書がとてもわかりやすいものとなったのではないでしょうか。
このように触覚的表現の書は、西欧の美術にではなく、声に主律されたアルファベットの西欧音楽に例えられ、匹敵するものです。
このようにできあがっている書は、次のように言い切ることもできます。

<書とは何か>
①    一点一画は触覚のかたまり。
一点一画は視覚的なものでなく、触覚的なものです。

②    点画からなる文字はベクトル「力と方向」のかたまりです。
良寛の「十」の字は刻々と変化する多彩、多様なベクトルから成っていますが、白隠のそれは、看板文字のような、ごく単純、単調なベクトルから出来上がっています。

③    そして文字の並びは重力のかたまり、といえます。

白隠のそれは文字の中心を揃えて並べただけのものですが、良寛のそれは、単に並べただけのものではなく、左右にずれていたり戻ったりしながらの展開があります。さあ、このように見てきた良寛と白隠の字。好みは別にして、この二つの書をどう評価されるでしょうか。
繰り返します。一点一画は触覚のかたまり。文字はベクトルのかたまり。文字の並びは重力のかたまり。 この観点に立てば書は誰にも共通の姿を見せてくれます。書ほどわかりやすい表現はありません。それはたいていの人が字を書く経験を持っているからです。このようにとてもわかりやすい芸術であるにもかかわらず、多くの人が難しいとして敬遠しているのは、うまいへたを考え、何とかいてあるかを考え、書を絵画のような視覚的なものとして考えるからです。

書はどのように書いてあるかの表現です。
書はどこまでいっても筆ざわりの展開、触覚的な表現なのです。
冬もそうですが夏もまた書の季節。
この見方によって大いに書を楽しんでいただきたいと願っています。

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