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「ヒトとイヌ 絆の秘密」(視点・論点)

麻布大学 教授 菊水 健史

犬は本当に不思議な動物です。動物の種も違い、言葉も通じないのですが、なぜか心が通じる気がします。それは「心が通じる気がする」のか「本当に通じている」のでしょうか。これまで、多くの認知心理学者がこの謎を解こうとさまざまな行動テストを実施してきました。これらの研究を通して、人と犬の関係性が明らかになりつつあります。

実はこのようなイヌの行動研究が盛んになったのは2000年に入ってからです。それまで、イヌは家畜化された動物の一種であり、行動学や遺伝進化学の領域では研究の対象となっていませんでした。イヌを研究するよりはむしろ、共通の祖先種をもつオオカミの研究がおこなわれてきました。それが2000年代に入り、それまで霊長類や大型動物の研究をしてきた人たちが、こぞってイヌの研究を開始することになります。まさにイヌ研究の黄金期がスタートしたといえます。近年の比較認知研究によって、犬のもつ卓越した社会認知能力、社会知性、とくに人とのコミュニケーション能力の驚異的な高さが見出されてきています。

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例えば、イヌはヒトが指を指した先にあるものを選ぶことができます。またヒトが見ているものを一緒に見ることができます。これらの能力をヒトでは共同注意といいますが、ヒトとの共同注意に関して、イヌは祖先種を同じくするオオカミよりもうまく行うことができます。さらに、驚くべきことに、ヒトに遺伝的に近縁といわれるチンパンジーよりも成績がよい、ということがわかりました。イヌは多くの動物の中で、最もヒトに類似したコミュニケーション能力をもつことがわかってきたのです。
これらの結果から、イヌはヒトとの長い共生の歴史を経て、ヒトと同様のコミュニケーション能力を得て、ヒトと「あ、うん」の呼吸で生活することが可能となったと考えられています。
犬との生活がもたらすもの、それはスムーズなやり取りを介した共同生活だけではありません。

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イヌは困ったときに、ヒトの目をのぞきこみ、どこか子どもっぽい顔やしぐさで、「いれてください」「助けて」「お願い」といった気持ちを表します。そして多くの場合、飼い主はそれを受け入れることに喜びを感じていることでしょう。かくいう私もその一人です。このイヌと人との特別な関係性においては、やはり、ヒトの親子間に近いなんらかのシグナルのやり取りがあるのではないか、と考えられます。
その生物学的な証として提唱される分子がオキシトシンです。

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オキシトシンは母乳をつくったり、分娩を助けたり、とお母さんのために必要なホルモンです。そのホルモンは脳の中でも働いて、お母さんの母性を高める作用を持ちます。また相手と親和的な関係を作る、信頼関係を構築する、相手を助ける、などの高い協調的な社会関係性にも関与します。イヌと人は情緒的につながり、お互いを大事な存在とすることが逸話的には知られていました。しかし、その特別な関係性、すなわち人とイヌの絆の形成に関しての科学的な検証はなされてきませんでした。では、イヌとの触れ合いや視線によるコミュニケーションは、はたして飼い主のオキシトシン分泌量を上昇させるのでしょうか。

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私たちの研究室では、イヌの飼い主にむけた視線はアタッチメント行動として飼い主のオキシトシン分泌を促進するとともに、それによって促進した相互のやりとりはイヌのオキシトシン分泌も促進することを明らかにしました。

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また、イヌでのオキシトシン作用を明らかにするためにイヌにオキシトシンを投与した実験では、イヌの飼い主への注視行動が増加し、それに伴って飼い主のオキシトシン分泌が増えました。これらのころから、ヒトとイヌとの間には母子間と同様の視線とオキシトシン神経系を介したポジティブ・ループが存在し、それにより化学的な絆が形成されることが示唆されました。

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また、オオカミにはこのような視線とオキシトシンの関連はみられませんでした。つまり、イヌは進化の過程でヒトに類似したコミュニケーション・スキルを獲得しただけでなく、本研究で明らかとなったポジティブ・ループも獲得したことでヒトとの絆を形成することが可能になったと考えられます。このようにポジティブ・ループを共有できるイヌとヒトの関係が寛容性の獲得とそれに伴う協力的関係を基盤として成立したという可能性は、ヒトの本質やヒト社会の成り立ちを理解するための手掛かりとなると考えています。
予想以上にというか、予想どおりというか、犬は情緒深く、人とつながり、心をつないでいることがわかってきたことになります。そして犬と共通の祖先種をもつオオカミではそのようなヒトとのつながりを持つ能力が確認できないことから、犬は進化と家畜化の過程で、この能力を得たと考えられます。そしてこの情緒的なつながりは一つの分子、オキシトシンがつかさどっているということです。個体をつなぐ1つの分子が、私とイヌたちをつなぐのです。ノーベル医学生理学賞を受賞した、ローレンツはいいます、“The bond with a true dog is as lasting as the ties of this earth can ever be (本当のイヌとの絆は、ヒトがこの地球とのつながりがあるように、永遠のものなのです)”と。きっとそれは、今回見出した、生物学的なつながり、を意味していたのではないかと考えています。

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イヌは最古の家畜であり、他の家畜が約1万年前に家畜化されたのに比べ、4万年程前からヒトと共生してきました。この共生の過程で、ヒトとイヌは特殊な関係性を構築し、最も身近な動物として広くヒト社会に介在しています。なぜそうした高度な能力を犬が持つようになったのかの全容解明は、これからの研究を待たなければなりません。しかし、いくつかのヒントは明らかになりつつあります。犬はオオカミと共通の祖先から進化してきたと言われていますが、犬は犬として独自の進化を遂げてきたことが遺伝子の解析からも明らかとなってきました。またいくつかの遺伝子が、イヌの高い社会性に関与することも報告されています。
現在、イヌと生活することでのヒトの心身における恩恵に関する報告は枚挙にいとまがありません。例えば小児アレルギーや、戦争帰還兵などのうつ病、自閉症、慢性疼痛(とうつう)や消化器疾患において、イヌとの生活が改善効果をもつことが報告されています。このことは、イヌは決して狩りや運搬などのヒトの道具的な利用に限らず、ヒトが健康に生きるためにも非常に強いプラスの効果をもたらしていることがわかります。お互いが恩恵を受ける関係、それを育んだイヌの進化の過程、ヒトとの共生の歴史を知ることは、つまりヒトがなぜイヌとは特別な関係が結べたのかを理解する、ヒトという動物種の理解にもつながります。イヌがなぜ犬になったのか、そしてそのことにより、ヒトはどのような進化的変化を遂げたのか、それらを明らかにする日がやがて訪れるでしょう。そして、地球で生まれた生命体が長い歴史をかけて育んだヒトとイヌの関係性、これからも永遠にと願っています。

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